オレは船場のあほボン
第一章
堕落
金儲けには、コツがある。
「コツ! それは、なんでんネン?」
「あんた、人生の授業料 なんぼ払ろうた?」
タダでは、教えられない秘伝中の秘伝。
老舗の跡取り息子エレガンスVの二代目山田雅彦は、陰では、あほボンと呼ばれている。一人っ子の甘えた育ち、何不自由なく日々の暮らしを送っていたが父の急死により急遽跡継ぎとなり楽珍な公務員生活から生き馬の眼を抜く船場へとやってきた。古参の番頭たちがしっかりしているものの、我が儘が根付いたあほボンこと雅彦には、みんなが手を焼いている。
片や船場に来て、まだ間がない婦人服卸のロータス社長吉田幸一は、独特のアイデア商法でマスコミの取材が殺到する露天商上がりの叩き上げ、気性は激しいが男気のある義理と人情を持ち合わす昔気質。若いころは、貧困、無学、虚弱体質、と逆風の諸条件を抱えながら、年商八億円まで押し上げた船場の風雲児!
大阪のど真ん中を東西に走る中央大通りと南北に銀杏並木が並ぶ御堂筋が交差するところから西の堺筋まで八百七十メートルもある細長い船場センタービル内に、一号館から十号館まで千軒以上の問屋がひしめき合っている。この二人はその中に自社店舗を構えて、衣料品や雑貨の卸業を営んでいる。
ここ大阪船場、といっても広い。東西の横堀川、北は土佐堀川から南は長堀まで、北から北船場、船場、南船場、大きく分けるとこの三つの呼び名で仕切ることが出来る。街の歴史は古く豊臣秀吉の大阪城築城での治水工事により出来た土地。全国から商品を集積してまた全国へ流す天下の台所と呼ばれたところ。千石船を巧みに操り潮の流れを読み、北前船で名を馳せたあの高田屋嘉平も蝦夷地を往来して財を成す。
知恵と欲望が渦巻く商人が集まり一国一城の主として、明日を夢見、明後日に翔る、男一代ど根性、船場のあほボンの一日が始まった。
「また、商品送り返してきよった。これどこや、売るからうるからって、しつこう言うから送ったたのに……もう」今日も船場のあほボンがぼやいている。
「何着送ったんですか?」呆れた番頭がやさしく聞く。
「百着ヤ。せやのに、九十七着も送り返してきよった。もう二度と送ったるナァ」
委託販売での返品を喰らったらしい。相変わらず商売ヘタクソのあほボン!
世襲制度という今も古い習慣が残る船場界隈。あほでも跡継ぎの二代目、三代目、の坊ちゃん育ちが、まだ、ぎょうさん生き残ってる街。親が死んだ途端に使いきれない程の遺産を貰い、商売の、いろは、も知らないくせに、大学出たと言うだけの脳タリンさんの跡継ぎがいっぱい。遊びから覚えて博打に女、骨抜きにされて、はい、倒産。今日の新聞にも繊維業界倒産史上最多と出ている。この、あほボンどもは、生きた苦労というものをしたことがない。産まれたときから金持ちのボンボン。住んでるところも一等地、芦屋、帝塚山、千里に学園前。顔だけ見れば、ドブ池、毛馬の閘門と臭い匂いが漂う品のない顔ばかり、いくつになってもお母ちゃん、お父ちゃんの腑抜けのボンボン。
「せやから、あそこはあきまへんて言うたやおまへんか」古参の番頭が注意をする。
「うるさい、お母ちゃんが売り上げ取れとれと、やかましい言うさかいにこうなったんヤがナ」と、反省はしない。
「そら、違います。相手見て売りはらヘンからですわ」もっともの意見。
「番頭はん、ワシに説教する気か? 誰やと思うてるンヤ」地位を盾に取る。
「わては何も、説教するつもりで言うたンヤおまヘン」当たり前のこと。
すねてひがんで挙句の果てに、口をへの字に曲げて捨て台詞。
「けたくそ悪い、お茶でも飲んでくるわ」
あきれ返った番頭さん、
「おかみさんに怒られても知りまへンで」
両手をポケットに入れて与太り歩きをする。子供扱いされてなにくそと振り返り、
「やかましぃわい。わし、いくつやとおもうてるンヤ」
遠ざかる若旦那の背中を見ながら、
「ああー、いてしもうた。しゃぁないあほボンやなァ」
商売は下手、理屈は達者、怠ける理由ならいくらでも知恵が回る。産まれたときからチヤホヤ可愛がられ、怒られることはまずない。我が儘気まま、やりたい放題の好き放題、先代から仕えている番頭連中は、頭を抱えるが、女房子供を抱えた明日からの生活が脳裏をかすめ今ひとつ強くは言えない。
衣料問屋の中でも古いしきたりや習慣にとらわれているところは、どんどん取り残されていく。国内商品は高くて売れない。それより海外物、アジア物でも良い商品が増えて商売の流れが変わっている。今や海外モノでも差はないほどに品質も上がってきた。しかし、古いことにこだわるところは、取り残されていくばかりでなく会社自体が消えてなくなっていく。シャッターの前に貼られた裁判所の告知、倒産、破産、競売物件という張り紙の見ない日はない。緊縮財政をとる小泉政権になってからは、特にひどくなる一方だった。
「おネエちゃん。コーヒーちょうだい。新聞どこ、スポーツ新聞、昨日阪神勝った? 知らん。あっそう、コーヒー早よしてな、オレ忙しいから」
「新聞ここおいときます」
「あっ、おおきに。また阪神負けよったがな、まじめに野球やらんな、ファン逃げるで、しかし、野球へたやわ」
いったい誰のことを言っているのか? 自分は商売が上手いとでも思っているのだろうか、油を売るのは上手いのだが、その様子をとなりの席でジッと見ていた婦人服卸のロータスの社長。以前は江坂オークションと派手な名前でブランドバッグの安売りで浪花のど根性商人としてテレビの特番に出演し名を上げた人物。突然の心臓の病気で長期の入院、退院してからは隠居の身ながら妻のだザインする服が評判を呼び、店の管理で日々忙しい。
その社長がコーヒーを一口すすり、横目で声を掛ける。
「ボン、何、あぶら売ってまんネン。また、お母ちゃんに怒られまっせ」
「あっ、社長、やめてぇや、おかあちゃんのことは、オレが二代目社長なんやから」
「そらぁ、跡取りはんでっさかいになぁ、この時間忙しいのンとちゃいまンのか」
「それが、また、返品くろうてしまいましてン」
「返品? お宅は現金買い取りと違いまンのか?」
古い習慣を残しているところは、長期の掛け売り商売に六ヶ月の手形。もっと昔は年二回、盆と正月の掛取り。お金はゆっくりでよい、その分高く売っておくんなはれ、と暴利を貪ることも出来た暗黙の了解を取り付けた返品OKの高値商売。今も地方問屋や百貨店ではこの習慣が残っていると言う。
しかし、時代の流れが変わり、数年前からデフレ現象が起きてきている。素早く気づいたところは、仕入先を取り替えて器用に対処したが、遅いところ、すなわち、ドンくさいところは、古い商習慣のまま商売を続けているか、名ばかりのコンサルタントの主催するセミナーとやらに顔出し、大金を吸い取られている。「誰がかな儲けのコツを教えてくれるもんか」「ほんまに儲かる話を人にするか?」と陰では言いながらもこっそりでかける無能無知の呆れたボーイズ。売れない原因はおのれの中にあるのを気付かない。歳は若くても頭が古い船場に数多くいるあほボンどもには、そこが今ひとつ理解が出来かねている。「何とかなる」平和な人達。
そして、重要なことは、親に頭が上がらなかった。先代は偉大なり。のれんは汚せない。
あほボン雅彦が大きな声で言う。
「今時、現金くれるとこなんか、あれしまヘンで」
「何言うてまンネン。ウチなんか全部現金でっせ」驚いた表情でロータスの社長が言い返す。
現金! ビクッと身体を引いたあほボン。
「強気な商売してまんンな、今、ほとんど掛け売りの委託でっしゃろ」
ロータスの社長が意外な、と言う顔で、
「そうですか、わしは、ヨソさんも現金売りやと思うてましたわ」
あほボンが、教えたりまひょかと眼をきょろりとひと回転させて、身体を前へ乗り出した。
「いやー、ロータスの社長みんな口で言うてるだけで、ほんまは、掛け売り委託の返品OKですわ。でないと買うてくれまヘンがな」
現金貰わずやっていける?
種明かしは……余程の信用がないとできない。と、思いきや、相手を泣かす。製造元を泣かす。支払いを遅らす。返品を製造メーカーにくらわす。そのせいで、たくさんのメーカーが潰れた。
「船場商人は汚い」などとも言われる人もある。
新参者の婦人服卸のロータスは、まだ船場に来て間がない。客もなければ得意先もない、一軒一軒自ら開拓していくしか方法がない。それだけに知恵、直感、度胸が必要となってきていた。うかうかしていたら、潰されてしまう。売れ筋はすぐにマネされ、根こそぎ奪われる。仁義もクソも何もない街と化してしまっている。それも不景気が作った産物と言っても過言ではないだろう、人の心までがすさんでいく。
忙しい日々から開放されて年に一度の船場連合会主催の春の慰安旅行。春と言っても二月の終わり。商人には年二回の暇な月がある。二、八と言われる二月と八月だ。それを利用しての親睦旅行である。行き先は南国宮崎。関西国際空港から飛行機で僅か一時間足らず。機内の窓から四国山脈を眺め足摺岬の最先端を通り過ぎると、もうすぐ緑と温泉湧き出る日向の国。機内の窓から望む青黒い日向灘に漁船が漂い遥か前方に九州の山々の険しい地形が徐々に迫ってくるころ、シートベルト着用のランプがプアンと点灯した。
海に突き出た一本の滑走路に海面すれすれ滑るように着陸する。ガタンと車輪が小さなショックで身体が前後に揺れたそのときあほボンが悲鳴をあげた。
「あー怖かった」
「若いもンが、何、ビビってンねン」バッグ屋のセブンさんが怖い顔で怒鳴った。
あほボン雅彦は、シートベルトをはずしながら青白い顔で言い訳をする。
「生命保険あまり入ってないからチョット心配で」頭に手を置き林家三平のように、ペコ。
『おまえなんか誰も心配するものなどあるかい』という顔で船場連合会の連中は空港前のバスに乗り込んでいく。
エレガンスVのバカ息子、山田雅彦は、実質社長である母親の代理として顔を売るために初参加した。仕事は半人前だが遊ぶことは天下一品。開いた口は止まることなく喋り続ける。
バスに乗った途端、開口一番飛び出した言葉がみんなの度肝を抜いた。
「ええ女、いてまっしゃろか?」
年輩の社長連中は付き合いで来ているものが多く楽しそうな表情を見せる者はいない。そんなことはおかまいなく全員に訊ねるように、
「地酒は何が旨いンでっしゃろネ」
うるさいヤツと言わんばかりの連合会会長の大山大輔、下着の卸業を専門とする筋金入りの船場の商人である。
「エレガンスVの若旦那、神聖な連合会の慰安旅行ですよって、あんまり変なこと考えんようにたのんまっさ」
注意されてブツブツと口の中でもごもごしている。元来のボンボン育ちあまり人に叱られることや注意されることはない。免疫がないのである。
「ロータスの社長、おもろいとこ、知ってマっか」
「着いた早早、張り切ってまンな」
「僕、親と同居してますやろ、滅多なことでは外出できまへんネン、それで楽しゅうテ」
「日が暮れるまで辛抱しなはれ、恒例の会長あいさつや、繊維組合長のあいさつやら長々続くから、それまで、チャック」口を右から左へシュッと引かれてしまった。
フェニックスの木が空に向かって真っ直ぐ伸びたバイパスを南へ走ること二十分余り、広々とした太平洋が広がる青島神宮に立ち寄り先ずは参拝。波のうねりのような鬼の洗濯板と言われる海岸線が続く。さざ波うち寄せる青島海岸は白砂の遠浅。ドームと球場を兼ね備えた巨人軍のキャンプ地サブマリン球場がドンと建ち黒潮から運ばれてくる春の風が首筋に汗を滲ませる。空は真っ青、照り付ける太陽の下、左に海、右に断崖絶壁の日南海岸を快適に飛ばしイルカ岬で記念写真を一枚パチリ。目の前に広がる大海原から打ち寄せる波飛沫に戯れ、新鮮な酸素を胸いっぱいに吸い込む。再びバスに乗り、照葉樹林と水、そして、有名な地酒の醸造元のある綾の郷へと向かった。
あほボンこと雅彦が真っ先に駆け足で焼酎記念館とワイナリーの建物の中に入って行く。
「うわー焼酎飲み放題だっせ、ワインもッ」飛び跳ねてはしゃいでいる。
「大きい声で言いなはンなッ」ブラウス屋のマルトモさんが注意した。
書いている札を指差して、「これ見てみぃ」みんなに向かって大声で教える親切なあほ。
「ご自由にどうぞって、書いてますがな」置いてあるプラスチックの容器を手に持って、みんなが昼食をとっている間に名産のそば焼酎にワインを飲まな損とガボガボ煽り、顔を赤らめて、一人喜んでいる。
「元、取り返さな、高い旅行代金はろうてんさかい」
ダンスの衣装を売っているベティの女社長が眉間に皺を寄せて嫌味たらしく嘆く。
「家で飲ませてもらえないんですかぁ」よく通る声が館内に響く。
口にグラスを運んでいたあほボン雅彦は大きな声に驚き、
「ゲッボ」
ガラス細工や木工品のみやげ物を手に再びバスに乗り、まほろばの里、霧島温泉郷へ向けて国道十号線を走り出す。高千穂牧場や霧島神宮などにも立ち寄る。バスの中ではマイクを持ったあほボンが一人酔った勢いで、
♪ピーヒャラピーヒャラ踊るポンポコリンピーヒャラピーヒャラ♪
立って腰を振りながらはしゃいでいる。
高齢者の多い車内は、白けムードいっぱい、冷たい視線があほボンに向けられたが、♪ペッパー〜ケイブ、ジャマヲ〜シナイデ〜ネ♪ウララ、ウララ、ウラウラト♪
もう、どうにもとまらない。
何処からともなく声が漏れてくる。
「エレガンスVのママさんも気の毒でんなぁ」
「この二代目でおわりでっしゃろなぁ」
楽しければそれでいい。人の言うことなど関係ない。歌って手拍子を強制し本日の宿、霧島高原ホテルに到着するまで、ワンマンショウを演じていた。
「ボン、えらい飛ばしてまんな」スラックス屋のエトワールさんが冷やかす。
「夜に備えてエンジン賭けとかな、僕スタート遅いンですわ」
「オーバーヒートせんようにほどほどに」
みんなが口を押さえて笑っている。
「余計なことを言うな」
酔うと人が変わったように強気になって、オレは、エレガンスVの息子、二代目社長じゃ、と言わんばかりに威張りだす。
あいつには、昔、金貸したった。こいつは、昔ウチで丁稚奉公しとった。ただ酒を昼間から飲んだばかりに荒れ狂っている。
会長がロータスの社長の耳に口を近づけて、
「何とか、たのんますわ」
「何がでんネン?」
「あの、あほボンですがな」
夜の宴会まで数時間ある。
「ひと風呂浴びるか?」と誘い大浴場に隣接したサウナ風呂へと連れこんだ。
「ウイッ、ゲボ、ウエー」
今にも吐きそうな気配、先にトイレに連れて行き指を突っ込んで吐かせる。ただで飲んだ酒は再び宮崎の大地へと帰っていく。
吐いたせいか、かなり楽になったようである。サウナと水風呂に交互に入り外の景色の見える湯船に腰まで浸かって顔の筋肉がゆるみっぱなし。
「ボン見てみなはれ、赤い夕日に染まる桜島がみえるで」
薩摩半島と大隈半島に囲まれた錦江湾に浮かぶ桜島が雲海の中に顔を出し頂上から噴煙を噴き上げている。
「うわー、雄大でンナァ」
詩人のような言葉を吐く。
岩の上に立ち、叫ぶように、
「西郷隆盛の気分でんなぁ」
感化されやすい単細胞なのかもしれない。前も隠さずタオルを刀に見立てて舞いだした。
♪べんせい〜しゅくしゅく〜よる〜かわを〜わたる〜♪
歴史感覚がないのか何故か川中島の詩を吟じている。
同じように湯船に使っていたロータスの社長が西南戦争の一幕を一節唸る。
♪あめは〜ふるふ〜る、じんば〜はぬ〜れ〜る〜こ〜すにこされ〜ぬ、たばる〜ざ〜か〜♪
「社長はやることが渋いでんなぁ、ほかのお客さん聞きほれてまっせ」
ドッコイショっと、ベンチャラも忘れない。たっぷりと汗を出し気合を入れなおして宴会場へ。延々と関係者のあいさつが続き、若者代表としてエレガンスVの若旦那がなぜか指名され、挨拶に立つ。
「ヨッ、二代目」
小さな掛け声で、「あほボン」と声がかかり、場内大爆笑の渦が巻き起こる。
「今、笑うた人、罰当たりますよ」
不機嫌をまずあらわし、ニタッと会釈をふりまく。おもむろに咳払いをして、挨拶を始めた。
「二十一世紀は我々若者の時代、古い者は去れ、年寄りには、あの世が待ってるぜ石原裕次郎、新しいアイデアよ今日は、こんにちはあかちゃんは、梓みちよ、あかちゃんべろべろバー、構造改革に円高不況、年金福祉に老人介護、道路郵政民営化、カジノ売春国営化、自民党民主党どっちも税金高い消費税反対。今日は無礼講で楽しくやりましょう。船場連合会の発展のため微力ながら力を注ぎたいと思っております」
危なっかしい挨拶は終わり乾杯の音頭がとられた。
コンパニオンが呼ばれ歌え踊れのドンちゃん騒ぎ、普段客商売でストレスがいっぱいの連合会長や繊維組合長も酒が入ると浴衣の前をはだけて羽目はずれっぱなし。
「ストリップ見に行こう」と、誰かが狼煙を上げた。
真っ先に手を上げたのはエレガンスVのあほボン雅彦だった。
「入場料なんぼですか」となりにいた年長の者に聞いている。
「勢いじゃ! こんなときしかアホには成れン、旅の恥はかきすてじゃ」
「僕、あんまり小遣いないから」肩をすぼめてしょげている。
ぞろぞろと男衆が浴衣に丹前を着用し下駄を鳴らして場末の小屋へ入っていく。
「足上げぇ、見せてぇ、もっとぉ」
男の欲情そのままが野次となって飛び交っている。
司会者が「本番まな板ショウに出てくれる人」と、眼で場内を見回している。
あろうことか酔っ払ったあほボンが手を上げた。生まれたままのストリップ嬢に手を取られ舞台に上がった。脱がされたパンツを客席に放り投げられた。お客たちは汚い汚いと引きちぎっている。あほボンは、ヘナヘナと舞台でフリチンの無様な格好で突っ立っている。それを見たお客の一人があほボンの股間めがけて、指を差した。
「あいつッ、とんがらしチンチンや、皮かむりやで」
大声で言われ、ワハハハと大爆笑が巻き起こる。ストリップ嬢が人差し指でピンピンと弾いて「可愛い」と言ったからまた、ドッと爆笑が場内に起こった。
酒もたっぷり入り、大勢の人前に立ったせいか、
「うむ?」とんがらしが言うことを聞かない。
「どうした? あほボン腰にグッと力入れろ」
どこからともなく笑いの声援。
ストリップ嬢がこすって鉄兜を剥いで何度も擦り、やっと一人前の男のモノになった。
「やり方知ってるか〜」熱い掛け声が飛んでくる。
「嫁はンや思うて、ブッチュッと行け」
混じりっけのない男だけの世界。卑猥な喚声があちこちに踊る。おまけにフラッシュを焚かれて写真を撮られたり、お尻にチップの千円札を「ペタリ」と貼られたり、おかしさでお腹を抱える観客たちが見守る中でアッと言う間に果てた。
「根性のないヤッチャのう」
次はワシやワシやと他の客も先を争って手を上げだす。
「病気貰うで」
ロータスの社長に施され、またホテルの風呂に入り、入念に鉄兜つきの祖チンを洗い始めた。顔面がふやけたように力が抜けきっている。
「おもろうおましたな」
ロータスの社長にサイテーのフニャケ顔を見せる。
露天風呂に若い女連れが入ったらしく、キャーキャーと黄色い声があほボン雅彦の耳に響いてくる。
「チョット覗きまひょか」
「やめとき」
静止する手を払いのけ岩壁の隙間に目を擦り付けるように覗く。
「うわー、デッカイ乳」
後ろを振り返り、親指を立てて、こっちとアイズするようにロータスの社長に教えている。
「見たら後がしんどいさかい遠慮しとくわ」
「見まへンのかぁ、もったなぁ」と、又覗く。
知らず知らずに、とんがらしの鉄兜から亀の頭がニョキッと顔を出してきた。
「おい、おい、若いのう、ボンは」
船場の問屋街では、世間に先駆けて、そろそろ夏物が店頭に並び始める。衣料業界の景気はからっきし沈んだまま、よくなる気配はまったくなかった。多くのメーカー、小売店、問屋があの世へ送られてしまっている。庶民の景気回復より戦争快復の戦費調達と軍事力派遣のキチガイじみた論議ばかりが横行している。小さなところは容赦なく潰し、大きなところは、公的資金という代名詞の税金を投入して救済する。強きをくじき弱きを助ける悪代官さまの世が出現していた。
「痛みを知れ」
「分かっております。痛すぎて死にそうでございます。お代官様!」と飲み屋で愚痴を言う者が増えている。
国家国民の義務とか、大本営発表の報道信じない方が身のため、賢者は歴史に学ぶ。選挙に当選したいなら福祉。年寄り子供大事にしたら票になる。税金いくらとっても腹痛まない。国会議員の先生方が貰う給料は我々の血と汗と涙の結晶! 当選したら一生食える。そんな政治家に頼るな、願うな、自分で生きろ。
「そんな無茶な!」
「ボン、商売というのは、売り手と買い手の心が一致せんと成立しまヘンで、わかりますやろう」
「ようさん儲けはって、ご立派でんなぁ」
ビールを煽り話しの続きを聞いている。
数多く読んだ書物には立派なことが書いてあった。だいたいが、自分で商売のしたことのない学者とか、コンサルタント、とよばれる人達が書いた書物を勉強だと思い一生懸命に読んでしまった。鵜呑みにして信じてしまい。資産の三分割! その言葉に感動し、実行した。土地、ドル預金、株と分けて持っていたのが、すべてパー。それで大損をした。頭だけで考えた机上学問商売、人から聞いた耳学問商売、分かっていても金儲けをしたいという願望から、知識に頼って何かをやろうとする。結局、目先が見えなくなり騙され引っかかり蓄財をなくす者は多い。詐欺的商法にコロリと騙されるのは年寄りだけではない。夢多き若者ほど老後の心配、余力資金の運用などと悪魔のささやきに、「コロ」一部の成功者だけを取り上げて溺れ行く敗者は見殺しにする社会、古来より何ら変わってはいない。信じるのは己の勘と度胸のみ。
「ヨッ、ロータスの社長ッ」あほボンが酔いがまわってチャカした。
「なんぼ金があっても度胸がないと商売はできン。それと、ひらめきヤ、霊感ヤ、第六感ヤ、そうや、感やがナ!」
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商売熱心な船場のひげの社長
今日は船場の売り出し日、全国各地から仕入に来るお客さんで通路はいっぱい。しかし、エレガンスVの店はさっぱり、昔の栄光はもう今はない。店の前を通る地方のお客たちも『ここの商品は売れない』そそくさと顔をそむけて通り過ぎていくのみである。「あっ」沖縄のルーブルさん、「あっ」名古屋のピンクさんと声をかけても、あとでチョットと素通りされる始末。そこへ先代社長からの上得意さんだった、東京のサロンドIの女社長が久しぶりに入ってきた。
横目でチラリとあほボン雅彦の方を向いて眼であいさつをした。
「あらー若社長、先頭に立って張り切ってるじゃない」
「へー、毎度おおきに」
「大社長の女将さんは、何処かいらしたの?」
「はい、身体の調子が悪うて、家にいてます」
「そう、若社長のセンスで三十着ほど選んでよ」
ハツラツとして見た目には景気がよさそうである。
適当にスーツを手に持ち、愛想を振りまきながら雅彦はすすめる。
「こんなン、どうです?」
サロン度Iの女社長は、生地の感触を確かめ、微笑を浮かべて目でOKのサイン。
「いいじゃない。じゃ、それ送っといてね、支払は来月でいいでしょう」
売れたと喜んだあほボンは、浮かれ気分で調子がよい。
「結構、結構いつでも結構です」
サロンドIさんが、息がかかるほど近づいて、耳元で小声でささやく。
「今度、東京にいらしたとき一度お寄りになって? ご馳走するわ」
「ほんまですかぁ、大学の同窓会があるので行く予定はあるんですけど」
「じゃぁその時寄ってくださいよ、いい事があるかもヨッ」
色っぽく、ほどよい肉付きが曲線になっていて、華麗に見えるサロンドIの女社長の目は、妖しげだ。
買ってくれるならお金はいつでもいい。オブラートに包まれた甘い言葉も見せかけの色気も丸呑みのあほボン。
「毎度おおきに〜」
客に選ばせないと、また返品を喰らうと常に言われているのに、また自らが選んで売っている。「あんたのセンスもう一つやった」と、決まって送り返してくるお客は、何処の店に行っても同じ事をするが、あほボン雅彦の選んだ商品は特に酷かった。そういう危険なお客からこそ現金を貰わなければならないのに、長年公務員生活をしてきた苦労知らずのボンボン。「お店においてもろうたら、何着か売れるやろう」と、弱い商売しかできない。利益の追求と言うものをしたことがない人種には、そこが理解できない。
「番頭はン荷造りしといてや、メシ食うてくるわ」
のんきでええなぁ、前回も返品貰ってる客に売るとは! 口うるさい女将さんがいないのをいいことに、サロンドIが入って来たのが分からない、止めても聞かない自分が社長ヤと無理な売り上げ作ろうとする素人商人、そんな売り上げは空売り上げ、売れた代金も中々振り込まない。難癖つけて引き伸ばすだけ引き伸ばして、挙句の果てに取りに来い。そんな集金、交通費も出ないと女将さんは嘆くのに、このバカ息子の二代目のあほボン雅彦は、遊び気分でへいこらと行ってしまう。
家庭教師をつけて私学の大学、それも東京の金持ちが集まるボンボン大学、コネで入った地元の区役所で、長年公園管理業務とやらをやっていたせいか それとも元来の能天気なのか? 思案と不安が交差する番頭はじめ従業員たちであった。
「番頭さんからひと言、言うてください」古株の販売員が嫌な顔でぼやく。
「あほ、何言うてんねん、わしの家族見殺しにする気か、この年で首になったら行くとこあらへん」
情けないと言う顔をして、つくづく昔はよかった。先代さんが健在なら許さない商いの仕方。ボンも悪いけど客もマナーが落ちたものだ。
「先代さんが生きてたらナァ、よう言うてはったわ、息してるだけでこの顔は看板になる。魔よけになる。みんな気を使う、もし死んだらなめて来よるさかい、しっかりしてやぁ、言うて」と懐かしむように番頭は腕組みをする。
「女将さんがいくら頑張っても所詮女、船場の商人も不景気時代の小売り商人には勝てん。輸入物に押されてウチも苦しい、そのために若旦那を呼び戻したのに……」と、先代時代からの女事務員がしょげる。
「いらっしゃいませ」
あほボン雅彦は、暖簾をくぐり船場商人たちがいつも食べる食堂にえさを探すサルのようににゅっとのれんから顔をだす。おかずが並んでるショウケースから鯖の塩焼き、肉じゃが、ほうれん草のお浸しを両手に持って席を探している。
「ボンこっち空いてるで」と奥のほうから声がする。
「あっ、ロータスの社長、お昼でっか?」
テーブルにおかずを並べて、豚汁にメシ大、と厨房の方に注文をだす。
「へーい」と大きな声が狭い店内にこだまする。
「昼間から食欲あるなぁ」
「食べとかんと、力でませんよって、今日は売出しですよってにな」
創業経営者ほど質素なモノを食べ従業員やアルバイトなどの方が豪勢なモノを昼間から食べる。朝、食べてこないからと言い訳する者もあるが、それはただの寝坊スケの戯言。
ロータスの社長が、ざるそばをすすりながら問いかける。
「そないぎょうさん食べたら寝むたくなるやろう?」
「眠たいときは寝る、自然に逆ろうたらあきまへン」と、口の中いっぱいに詰め込んで返事をする。喋るなり食べるなりの区別をつけづに話をするから、ご飯粒があちこちに飛び散る。そんなのはお構いなく喋り続ける。
「こないだの慰安旅行おもろおましたなっ、クックックッ」と助べぇ笑いを浮かべる。周りにいる客たちも笑っている。すでにうわさは広がっていて、不様な醜態を見せたことは誰もが知っている周知の事実、同罪と思われるのが気恥ずかしく、残ったそばをかき込み席を立ったロータスの社長。
「メシ終わったら茶でも行こうか、向かえに居るわ」
味わうこともなくただ口の中に放り込む。学生時代のクラブ活動の名残りだと、先輩にしごかれたせいだといい訳をする。元来食い意地の張った性分なのに、いつ客が来るかも知れん、メシは早よ喰え、と先代の口癖だけは、真似ている。実際、客が来ても番頭任せ、あほボンを利用しようとする掛売の返品目当ての客だけが近寄ってきてチヤホヤとするのみで刑務所のようなかき込み食いをする必要はひとつもない。ただ、オレも働いてるでぇ、と言うパフォーマンス。従業員に強要をする役人根性だけが身について残ってしまっていた。
喫茶店に現れたあほボン雅彦の顔を見てロータスの社長が、
「あんなとこで慰安旅行の話ししたらアカンで」コーヒーをすすりながらしかめっ面を見せた。
「なんでですのン?」
自分のしでかした旅の恥が、噂になっているのにまったく気づいていない神経の鈍いヤツ。
「まっ、ええけど、なんか飲みぃな」
「おおきに、ほんだらチョコレートパフェ」
飲めと言われたのにまだ食べようとする。
「あきれるわ、あれだけメシ食べてまだ食うか」
「別腹、別バラ」と、肉まんのように太った女さながらのセリフ。
「どや、今日は売れてるか」
「まぁ、ボチボチでんな」
一人前にしゃれたありきたりの船場言葉を使う。
「そうか、それあったらええがな、最近ぎょうさん飛んでるさかい気ぃつけや」
「飛んでる?」
眼が空中を彷徨っている。
「不渡りやがな」
長年の付き合いと甘い顔をして売るのはいいが、貰った手形はまず落ちない。構造不況、構造改革などと夜明けのめん鳥のように鳴いてみても、実体経済はどん底景気、バッタバッタと倒れていく。
「ウチは、大丈夫ですわ、先代からの長い付き合いでっさかいに」
「それが危ないンや」
運ばれてきたチョコレートパフェをグッチャーと笑って子供のように食べている。口の周りにチョコレートをつけて、ロータスの社長に付いていると口を指差され慌てて手で拭き取りさらにお絞りで口の周りを撫で回すように拭いている。
ラークマイルドを燻らせながらロータスの社長は話を続ける。
「これだけ悪うなったら長年も短年の付き合いもあるかい。キャッシュもらわな、いてまうで」
人の話を聞いているのか食べるのに夢中、へぇへぇ、と相槌を打つのみでうわの空。あきれ返りながらもロータスの社長は暇つぶしに話す。
「飛ぶわ、税務署入るわ、踏んだり蹴ったりやがな」
「何がですか」
「知らんのんかいな?」
「どないしたんです」
「スーツ屋の大黒屋さんとこ不渡り喰らうわ会社潰れるわ、オッサン今、行方不明や」
雅彦は驚くこともなく、フォークに刺したバナナをほうばりながら答える。
「そらぁ、日ごろの行い悪いんとちゃいまっか」
話にならんわ、コイツは、と上目遣いのロータスの社長。コイツの頭はカボチャか回転の遅いナンキンか? 話しの本筋を分かっていない。食べるか聞くかどっちヤ? たっぷりと皮肉るように、嫌味を言われても、口だけはもぐもぐと動きを止めない。
「ボンも公務員やめんほうがよかったのになぁ」
「跡継ぐ者いてないから僕がやらな誰がやりまんねん」
口の周りにチョコレートをつけたまま胸を張って見せる。すっかり空になったパフェの底に細長いスプーンを入れて、掻き出すように残ったチョコレートを取り出しコップに口をつけてズルズルとすすっている。
「早よ行かな客くるで」出て行けといわんばかりの何のメリットもないあほボンを追い払うように急き立てる。
チラッと時計を見たあほボン雅彦は「ほんまや、いかなアカンわ」と、席を立ち「ご馳走さんでした」はなから奢って貰う気だったと言わんばかりに、レシートを無視して出て行った。
今日は日曜日、豪邸が並ぶ大阪の帝塚山。家族は母親と妻と俊夫という小学生の男の子。
さほど疲れてもいないのに昼近くまで寝ているところを、遊びに連れって欲しいと子供にせがまれて起きるが、お父ちゃんは用事があるとウソをつき布団の中に隠している競艇新聞を見ている。近くの競艇場で笹川賞があるらしい。
下の階から母親が呼んでいる。
「雅彦、降りてきなさい、何時と思うているの、早くっ」
眠い目をこすりながら「なにぃー」と階段を降りてくる。
妻が気まずそうに下を向き加減にコーヒーを入れている。
「チョットここ座りなさい」母親がテーブルの椅子を指差して言った。
「この東京のサロンドIさんとブティックKさんとファッションハウス順さんとこ、何で支払が遅れてるンや」伝票を見せて問い詰める。
嫌な話を切り出すなぁ、と顔を背けながら口をすぼめて、小さな声で弁解をする。
「来月払うって言うてはる」
「前月分も溜まってるし、どないするつもりや」ドンとテーブルを叩いた。
虫のような声で、
「払うって言うてはんねんから、もうチョット待ったら?」
「アカン、これだけ遅れたら払う気がない言うこっちゃ、取りに行っておくれやす」
「いついくのン?」
「明日にでも時間作って、行ってきなはれ」
渋々頷くも行く気がまったくない。しかし、昔の学生時代の仲間と会えるかも? サロンドIさんの言葉は本当かなぁ、と気楽な人生!先々思いやられる。 母親は可愛い息子に、
「あんたに任せた以上はとやかく言うつもりはないけど、集金はキッチリせな、後々こたえるでぇ」
「はい、分かってます」
「分かってたらちゃんとやらな、番頭さんらは、いったい何してるンや」
うつむいていた顔を、パッと上げ、声を荒げた。
「あいつら月給泥棒や、よう売りもせんと文句ばっかりや」
母親は顔を歪める。何と! 長年勤めてくれた大事な従業員のことを、
「そんなことないッ、あんたに気を使ってはるネン、もっと言うこと聞きなはれッ」
コーヒーを飲み干し、遊びに連れってくれとせがむ子供を忙しいと手を振り解き、タクシーに乗って、住江の競艇場に向かった。
草履履きや雪駄履きの労働服に身を包んだ中年以上の冴えない顔の男の集団が、入場料を払って急ぎ足で掲示板の前にたむろする。
あほボン雅彦は、前半のレースを検証し今日は堅いな銀行レースばかりと本命に丸をつけ、なきなしの小遣いを窓口へ出す。三百八十円、三百五十円ほどのガチガチ本命を取り、メインレース前の九レースに賭ける。エンジンの轟音と共に横一線のスタートが切られ、インを突いた一号艇がブイを廻ろうとアクセルをゆるめ、ハンドルをいっぱいに切っている。そこを三号艇にイン差しを突かれ、艇が横に泳いだ「ウワッー」と場内からどよめきと喚声が沸きあがったとき、大外を廻った6号艇に見事なまくりをかまされ中穴が開いた。堅いレースと少ない配当に欲望が積み重なり、有り金の八割がたを投入していた雅彦は、がっくり。これではメインレースが買えない。
近寄ってきたある男が、ニヤッと笑って話しかけてくる。
「兄さん、金貸しまひょか」
「えっ、ほんま?」
「お仕事何してはりまんねん?」
「船場で服の卸を」とバカ正直に答えてしまう。
ニンマリ笑みを浮かべた若い衆は、どうぞこちらへ、と手をまえに差し出し誘導している。
常連客らしい何人かが一人の胴元に話しかけている。
次のレースは、インが強いやろ、いや差しの今田が決めよるで、何、言うとんネン、まくり差しじゃ、とそれを聞いた雅彦も血湧き肉が踊りだしてくる。
「信用で貸してくれまんのンか?」
「へー、もう船場の旦那ですよってに、ちなみにカードか免許証を念のために拝見できますか」
財布の中から取り出しカードと免許証を見せる。
「ナンボまで貸してくれますンや」
「いくらでも、立て替えます」
次は堅い! ここまで六連勝の一号艇中本のイン逃げ切り、と中差しの佐藤で決まり、と大方の予想が出尽くしていた。負けることはない。外れることはない。と、競馬や競輪などと同じように、小心な男たちの欲望を膨らませる。
「一発ドカーンと行ったらどないだす」と横からえべっさんのような顔をした初老の男が、手提げカバンをガバッと開けて、エッヘッヘと恵比寿顔。
「ウォッ」と雅彦は、驚きの声を上げて「これ全部勝ったんですか」と顔を見た。
一万円札千円札が輪ゴムで止められてビッシリ。
「そうや、さっきのレース一本買いでなぁ」とセブンスターを、ふぅーと吐き出しニコッ、と前歯の抜けた締まりのない顔を見せる。
欲が欲を呼び勝つことだけが頭に浮かぶ、博打狂いの人種雅彦ことあほボン。
「三万ぐらい買おうかな」
初老のえべっさん顔が、抜けた前歯から空気の漏れる口で喋る。
「何を(スー)言うて(スッ)まんねん(スゥースゥー)、こんな(すっ)銀行レース(すぅーすぅー)一番人気で(スー)二百四十円や(スースー)飛ぶことないわ(すっすっすっーすー)」
無責任な言葉を鵜呑みにして、札束が目に焼きついて離れない。
「ほんだら五万」と目をいっぱい見開いて拳にグッと力を込めた。
ハハハと喉の奥まで見せられて、オマエ素人かと言う表情を雅彦の顔にぎりぎり近づけ、タバコ臭い口で、スーすーと風が抜ける不明瞭な発音。
「競艇で(す〜)勝とうと(ス〜)思うたら(スゥ〜スゥ〜)こんな堅いので(すぅすぅ)一気にいかな(す〜す〜)一生勝たれへんで(す〜)ポーンと(スッ)五十ほど行きなはれ(す〜〜)」
あほボン雅彦の瞼に勝ったときの数字が横に七桁浮ぶ『百二十万円』
「決まりましたか」待っていたように角刈りのでっぷりと肥えた胴元が隣に座った。その手には札束が、ガバッと握られている。
それが眼に入った。
「ほんまに堅いでっか」まだ迷っている。
胴元は、周りの客と若い衆を、右、左と見回して、キラッと光る金歯をみせた。
「男あったら清水の舞台から飛び降りたつもりで、ドーンと行かなぁ」肩をポンと叩いて勇気付けをしてくれる。
財布の中から出す現金では決して買う度胸は湧かないのに、勝てると言う妄想が過信を自信に変えてしまい、欲望というベールに包まれたマイナスの力と汚れた勇気が理性の針を狂わす。
目を輝かせながらも震える声で「一−三、五十万、一点張りで」生唾をゴクリと飲み込んだ。
「男やのォー」気合の入った声を上げて胴元は周囲に「なぁ、ナァ」と、同意を求めている。
客が勝ったときには姿を消し、負けたときには取り立てる悪質なノミ屋に引っかかったのも知らず、百二十万の高額配当を夢見てレースに夢中になっている。
現金を見せた初老の男は、さくら、見せ金をチラつかせた胴元の金も表と裏だけのパチ物とも知らず、プロの詐欺集団が描いた絵にまんまとはめられてしまっている。
「行けッ、行けッ」と、声援を送れど、本命の艇は上から被せられ、行き場を失って三着。二番、三番人気の艇が入り、開いた口に外れ券が飛び込んできた。「ペッ」と吐き出し。現実の眼に戻った。足の裏から気が抜けるように首をうな垂れ肩を落とし、しゃがみこんでしまった。
雰囲気が怪しい? 男たちは、じりじりと周りを取り囲んで怒鳴るように家まで取りに行くと言う。先ほどまでの優しい言葉遣いはどこへやら、まるで暴力団である。
「金ない! どう言うこっちゃ?」若い衆が口々に与太っている。
「家に来てもろうたら困ります。僕……」
「僕がどないした?」
「警察に……」
「道徳の知らんヤッチャな」
胸ぐらを熊手のような大きな手で、ギュッと捕まれ「オイッ、コラッー」と、引き寄せられて、顔がくっ付く距離でツバを飛ばしながら、ヤクザの道徳を教えられた。
「オマエ幾つや、負けたら払わんかい、常識のないやっちゃな、簀巻きにして南港に沈めたろか」
身体検査をされた挙句、近くの銀行に連れて行かれて、クレジットカードを差し込まれる。
「入ってるやないケッ」
金利の高いカード会社の貸し出しローンが手付かずだったのを幸いに、家に押しかけて来ることなく、それで支払を済ますことが出来た。
五十万円を支払うと五万円をタクシー代としてくれる。ノミ屋は一枚九十円の一割引や、良心的やろう、と金歯がまたキラッと光った。五万円を受け取った雅彦は何故か嬉しくなったような気分になり「おおきに」と礼を言っている。
「これに懲りずに、また遊んだってヤ、なっ」
やっとの想いで開放されて家路についた。
痛い賭け事の授業料を払わされた。本来なら反省してバスに乗って帰るところを思いがけない余禄の五万円が手元にある。タクシーで帰ろう。
家に入ると「お父ちゃん」と近寄ってきた子供に「うるさいっ」と言って二階へ上がり、布団をかぶって競艇新聞をポケットから取り出し、復習と言うか悔やむと言うか仕事ではしない反省をしている。
かならず集金に行くようにと再度夕食のとき母親から念を押され、分かりましたと、交通費を受け取った。
「この子は、交通費すら自分で出せんのですか、佳子さんどうなってるの」と、嫁の顔を睨む。あなたのしつけが悪いから、と我が子を庇い嫁のせいにする過保護の姑。
うんざり嫌気が差していても口には出せない嫁の立場。
「申し訳ございません」
「毎月の給料どうしているの?」
息子が無駄遣いしていることなど気にも留めず嫁を責め続ける。服屋同士の親が決めた結婚。好きでもない相手、家柄より商売柄の繁盛しているもの同士の結びつき、それによって、より飛躍できるものと思っての欲と欲の絡み合い結婚。
バカ息子とお嬢さん育ちの骨細娘の甘えた二人、親が作り上げた砂の城を固めることなく、一粒づつ吹き飛ばして徐々に崩れ去る。
「なんやこのおかず、亭主をバカにしてンのンか」
出来の悪い子ほどおかずや食べ物に文句を言う。
「すいません。俊夫と出かけてて遅くなってしもうて」
「言い訳をすンな」
それを見ていた母親が、
「食べ物の前でそんなこと言うたら罰当たるで」
「食べ物に耳あるんですか」
「この子はッ、それにしてもチョットひどいな佳子さん」流し目で嫁の顔をジロッ。
嫁としてつらい立場に立たされ、えらいところに嫁いで来たモノだ、これも何かの因果か宿命か、と泣きながら片付け物をする。
「お父ちゃん、お母ちゃんが泣いてる」
俊夫が居間にいる雅彦に駆け寄ってきた。
船場の朝は早い。全国から仕入に来るお客さんは、フェリーに一晩揺られて来る人や、早朝の一番機で来る人など様々だが、早く馴染みの店に行って、よい商品を仕入れようと前日から泊り込みのお客さんなど、週始めの月曜日などは、午前七時から店を開けているところもある。
ハイッ。いらっしゃいませ。新作入ってまっせ、どないだ、これ、ええ柄してまっしゃろ、と服を片手に持ち威勢良く客に勧めるベテランの商人。
よう売れてまっせ、在庫はおまへんで、売れたら仕舞だす、早いこと買わなもうおまへんで。素通りせんと、何ぞ買うておくれやす、と購買心を煽るやり手の番頭。
売れた商品は、早早に荷造りをして店頭に置いておくと、運送会社が引き取りに来る。
「運賃は負けときマッさ」と急ぎ足のお客に声をかけ次のお客を相手する。
僅かな運賃で値引き交渉をする間に、次の客を相手にして一枚でも多く売った方が効率がよい。
不景気を口癖のようにして仕入れる小売店の店主は、少しでも負けさそうと躍起になる。たとえ運賃の数百円でも、端数は切り捨てろ、よそはもっと安いで、と悪態をつきながら嫌な笑い顔で駆け引きをする。狐と狸の化かし合い。
誰よりも遅く出勤するあほボンの雅彦が、店のある船場へやってきた。
「おはようさん」と声をかけたのが九時すぎである。
ほとんどの商売は終わっており、あとは、こしゃな客だけが小さな仕入に廻るぐらいで、殆どの船場の店主たちは、遅い朝ご飯かモーニングサービスのある喫茶店へ足を向ける。
何故か、あほボンも来たばかりなのに同じ行動をとる。
「どちらまで?」と番頭が声をかける。
「いつものとこや」と振り向きもせず歩き出す。
「朝ご飯食べてないのかいな」と古株のパートさんがしかめっ面で言う。
「情報収集や言うて毎日行ってるけど、なんの役にも立たんわ」と番頭が埃はたきを持ちながらぼやく。
「よそさんの社長さんは、コーヒー飲んでパン食べたらすぐ戻ってきはるのに、新聞全部読んでそれから競艇や競馬の話したっぷりして、帰ってくるねんから」と先代から勤めている古参組みはぼやく。
「それも負けた話しを自慢のように大きい声で、礼服屋のおっさんと喋るねんから恥知らずもええとこや」とまた、番頭が愚痴る。
「嫁はんが悪いんや、男は女で決まる」ぼろカスに小番頭の山岡さんが放つ。
「女も男で決まるデッ」先代からのお局さんも男衆の顔を見て怒鳴り返す。
そんなことは一切関知せず、忙しそうな素振りを見せて、喫茶ジュンに入って行った。
「グッドモーニング」と馴染みのウエイトレスと挨拶を交わし「ええケツやなぁ」とセクハラを堂々とやり、ヘナヘラと顔見知りの社長連中の集まる席へ、間延びした声で、「おはようござ〜ま〜す」と首だけでチョコンと一礼をする。会釈だけで、おはよう、と社長連中は答え、あほボンと深くかかわろうとはしない。
座る席を見定めて、クックッと笑い、礼服屋のオッサンを見つけてその席へ腰をおろした。
「昨日、どうあった?」とスポーツ新聞を手に礼服屋が首を突き出して聞く。
「七レース、八レース、とポンポンと取ったんですわ、ハハン」と威張ってみせる。
「へー、そらぁ、すごいでんがな」
「まっ、堅い銀行レースやからチョロイもんですわ」
ウエイトレスがやってきて、何いたしましょう、と訊ねた。
「いつものヤツ」
「お尻さわったら警察に言いますよ」とあほボンに詰め寄る。
「ケツぐらい何やッ、胸さわらせっ」と弱い者には何故か強い。
ウェイトレスは舌をべろっと出して膨れ面で行ってしまった。
あほボンと仲が良いと思われるのが嫌なのか、さほど美人でもないのにプライドだけはやけに高い。
「簀巻きにして南港に沈めたろうか」
「えらい朝から怖いこといいまんな」と礼服屋が驚いた表情であほボンを見る。
この二人は、船場でも博打狂いとして札付きの有名人であり、毛嫌いされている。
「おはようございます」とロータスの社長が入ってきた。
「社長」と大きな声であほボンが呼ぶ。
手招きして、こちらに座れ、とおいでおいでをしている。仕方なく座りかけた椅子から移動して「オッス」と軽く頭を下げ、あほボンの前に座った。
礼服屋が身体を乗り出してヒソヒソ話をするように話し出した。
「ロータスの社長知ってまっか、エレガンスVの社長、昨日えらい勝ったそうでっせ」
と、あほボンのほうを見る。
否定することもなく「チョットだけ」とうそぶいている。
「ほう、そらよろしおましたな」とタバコに火をつけた。
聞きもしないのに自らウソ八百を並べる。負けたことなどは一切言わない見栄っ張り。
「ご馳走してもらわな、あきまへんな」とロータスの社長は、このほら吹きめ、と言う顔付きで苦笑いを浮かべた。
「ロータスの社長は賭け事はしまへんのか」と礼服屋が訊ねた。
「卒業しましてン」
「卒業をしたって言う事は、昔はしてたってことですか」とあほボンが訊ねる。
「授業料高いでっさかいにナッ」
何でこんな面白いことをやめるのか、と朝から利益にならないことを大の大人が話している。損することは、わしはやらない、と答えたロータスの社長に対して即座に返答したあほボン。
「家建てたヤツも居てまっせ」
呆れ顔でロータスの社長が返す。
「潰したヤツは知ってマッけど……」
「博打にはコツがある」あほボンが負けてはいない。
あほらしくもないこんな連中と時間潰してられんわ「お先に」と、タバコを消して出て行ってしまった。店の中には、あほボンと礼服屋以外は誰も残っていない。そこへ店の店員があほボンを呼びに来た。
「女将さんが呼んではりますけど」
慌てて残ったコーヒーをすすり、急ぎ足で出て行く。長い廊下を走り階段を駆け上がって自店のある一階へ上がり、息を切らせながら母親の前に立つ。
「何でしょうか」直立不動の姿勢で母親を見る。
「出張いつ行くの?」
「いつでも」
「ほな、すぐ行って集金しておいで」呆れ口調で息子に命令した。
日帰りで行って来いと言われたが、それは無理と着替えを家まで取りに行った。予め電話で頼んでおけば良いものを、急に家に帰って来て「出張や」といかにも仕事をしに行くといわんばかりに言うので、妻の佳子が慌てた。
「どうしたんですか」突然帰ってきた雅彦に伺う。
「東京に行かなアカン、早よ用意してくれ」と何泊とも言わないから佳子が戸惑う。
「どれくらいの間、行かれるのですか」
「そんなん分かるか、適当にやってくれ」大雑把である。
三日分ぐらいをバッグに詰めて手渡したところ、
「こんな大きなバッグ持てるかッ」下へ放り投げた。
訳の分からぬまま何枚かの衣服を抜き取り、小さめのバッグに詰め替えて手渡す。玄関へ出て、行ってらしゃい、と見送る妻の佳子の顔を振り向くことなく、さっさと歩いて駅のほうへ向かっていく。見合い結婚の二人だが、以前はまだ仲が良かった。雅彦が公務員から船場商人となってからというもの、遊び癖がついたのか、二代目、三代目の悪い友達とつきあい始めてから、佳子との間に溝が生じてしまっていた。
自由席で行けと母親から言われたのにも関わらず、グリーン車に乗って居眠っている。名古屋を過ぎたあたりで目が覚め、浜名湖を通り過ぎたとき車内販売の女の子が通路に現れ甲高い声を出した。
「浜松名物うなぎ弁当いかがですか」
「一つ頂戴」ポケットから財布を取り出して支払を済ませ、お釣りを貰おうとしたとき、チャリンと小銭を落とした。
「あっ、すいません」販売員の女性が通路側の寝ている男性の足元に転がった小銭を拾おうと声をかけて、その男を起こしてしまう。
「何やっうるさいなぁ」人相の悪い怖い目で睨みつけてくる。
拾って貰った小銭をそそくさとポケットにしまいながら、ペコッと頭を下げる。座りなおして、何もなかったように割り箸をこすり、うなぎ弁当を旨そうに食べる。そのあと、雑誌を見たり新聞を読んだり、紙の擦り切れる音でまた、通路側の男が片方の目を開けて、雅彦の方をチラッと見た。
「コーヒーいかがですか」
また車内販売の女性が通り過ぎようとしたとき「コーヒー下さい」と呼び止め小銭を渡すと「熱いから気をつけて下さい」手渡されたカップを貰おうと、手を出したとき下りののぞみとすれ違い、ブーンと電車が揺れて、通路側の男の膝にカップが落ち、蓋が外れて、コーヒーがこぼれた。
「アッツゥ」怖い顔が飛び上がった。
「あっすいません」雅彦は謝る。女性販売員も謝った。
「何さらしとンねン」凄みを利かせて怖い顔の男が、腿の辺りをはたいている。
立つとさほど大きくないその男は、左手を顎に持っていき撫でている。さりげなく左手小指が切断されているのを、よく見えるように凄んだ。
「どないしてくれるンじゃ」コーヒーがかかったズボンをプカプカと引ぱっている。
「ぼ、ぼくは、関係ない、この子が悪いンや」と、女性販売員を指差した。
「いや、お前が悪い。さっきから新聞ボリボリ雑誌ガラガラとうるさいがっきゃ」
「そんなん」言いがかりをつけるなと言いたそうな顔は出来るが、怖い指が気になり、声になって出てこない。
「弁償せいッ」
指をポキポキ鳴らして、さらにドスの聞いた声で「オトシマエつけてもらうか」と居直ってきた。
車掌が走って来て、とりなそうとしたが、男は興奮している。
「人がええ気持ちで寝てるのに物売りにくるなッ、ボケナス」誰かまわず噛み付いてくる。その大きな声と騒ぎで、車内は総立ち騒然となった。
「どうすればいいんでしょう」車掌が言ったが、男はさらに追い討ちをかけてくる。
「誠意を示さんかいッ」真っ赤な顔をして、ゆでだこのようになっている。
「誠意と申しますと?」キョトンとした目で車掌が問い返す。
「誠意ちゅうたら誠意じゃ」血が頭へ逆流して拳を振り上げた。
全員が後ろへ引き一瞬の沈黙の後、あとから来た車内販売の上司らしき人が丁重にお答えした。
「洗濯代は当方で弁償させていただきます」
センタク! 眼がさらに釣りあがり時限爆弾の発火装置に火が点いたように、
「慰謝料ワッー?」と、爆発した。
「……といわれましても……」またキョトン。
雅彦は自分が問われなくてよかったと胸を撫で下ろした途端、男が毒づいてきた。
「オマエが出せッ」
「何で僕が?」
「やかましいッ、火傷代に痛み代で五万に負けとったらッ」
「五万ッ!」驚きと災難が脳裏でぶつかりあう。
「嫌あったら次の駅で降りてカタつけよか」小指をちらつかせ、冷めた口調。
泣き泣き三万に負けて欲しいと泣きつき、何とかその場は収まったが、東京に着くまで車掌と車内販売の会社に食ってかかる。あれは恐喝や、僕は悪くない、女の子の不注意や責任者呼べ、立て替えたお金を払え、とさんざん抗議したが埒があかず、怖くて席に戻ることも出来ないまま東京に着いた。
気休めの粗品を車内販売の会社から貰い、山手線に乗り渋谷へ出た。大学時代に通いなれた道順、人ごみを掻き分けて東横線に乗り換え学芸大前で降りた。住所を見ながら探していたが鷹番二丁目まで来たとき、道に迷った。事前に電話を入れると店を臨時休業にされたり、店員だけに店番をさせて居留守を装うので、ぶっつけ本番で行けという母親の指示である。交番所に入って聞くと道を一本通り過ぎているとのこと、引き換えして表通りまで出て、やっとのことで到着。
「毎度、こんにちは」
なにやら計算をしていたらしいサロンドIのママが顔を上げて、いらっしゃいませと言ったと同時に「いやー、珍しいエレガンスVの若社長さんじゃありませんか、どうぞどうぞ」と、招き入れ椅子を出して勧める。
「今、お茶を入れますから」奥の台所へ行きお茶を入れて持ってきた。咄嗟に集金に来たなっ! と勘が閃いたのか、話しをそらし交わし、巧みな話術で相手を煙に巻いてしまい、他の集金を済ませて寄ってくれたら支払うと、女のフェロモン百%の色仕掛けに屈してしまう。
「それじゃ、よそさん先に廻ってくるからよろしくお願いします」
チャーミングで、色気ムンムンの東京の匂いのするいい女、いつもそんなイメージを抱いていた雅彦は、頭より下半身で納得してしまっていた。
「ごくろうさま、申し訳ないわねぇ、遠いところ来ていただいて、ちゃんと用意して待ってますから、夜ご馳走しちゃう」
手を握られ肩に手を回されて、すっかりその気になり、なんの疑いも持つことなく後回しにした。
上野まで逆戻りをして、ブティックKさんからは、半分集金を貰い後は、必ず振り込むと言われ、二件目に向かう。池袋の駅前にあるファッションハウス順さんの店に入るなり、いきなり怒鳴られる。
「お宅の商品一つも売れねえんだよ、持って帰れッ」箱に詰まっている服を見せられ、今日にも送り返そうと思ってたところだ、二度とこんな売れない服送ってくるなッ。 散々に言われ一円の集金も出来ない。
「それだったらもっと早く言っていただけたら……」
「返すって言ったのによう、てめえがもう少し我慢して売って欲しいなんて抜かしやがるからよう、こっちも売れない商品もってデパートやスーパーの売り場まわたってやったのによう、こっちが手数料欲しいくれぇだ、まったく」
雅彦に喋るスキを与えない。
「でも、これだけ時期が過ぎて汚れている商品、今返されても困ります」
「じゃぁ取引やめようじゃねえか」と、開き直ってきた。
このまま帰れば母親に叱られるだけ、何とかしなければいけない。思案した挙句、いくらでもいいから買い取って欲しい、と弱気なことを言ってしまった。
「そうかい。こっちも欲しくはねえけど、あんたもお困りのようだ、これでどうだ」人差し指を一本たてて見せる。
「一着一万円ですか?」
ワハッハッハッハ、と店主も社員も笑っている。
「バッカじゃねえか、てめえ、これだよ、思い切って、これってことは」
「何ぼです?」
「一掛けだよ」
「一掛け!」
八十万の集金がたったの八万にしかならない。取り込み詐欺ぎりぎりの悪質なやり方であるが、このあほボンは気づかない。大阪に送り返してプレスをやり直せば、半値以上で売れるのに、普段からまじめに仕事に取り組んでいないから、商品は、もう、没と思っている。そこへ気迷いの入った雅彦の顔を見た主人は、畳み掛けてくる。
「倉庫代にもなんねえよ、そうだろうみんな」
他の従業員も首を縦に、うんうん、と頷く出来レースの駆け引きに、今まさに負けようとしている。しかし、この言い訳はどうすればいいのだろう。その時、主人がまた助け舟を出してくれる。
「盗難にあって、訴訟中だから、それまで伝票も商品も手が出せねえって、弁護士さんのご命令だ、と言えば母親も分かってくれるだろう、可愛い息子の使いだモン」
そう言われても錆び付いた頭ではすぐに理解ができない。
店員の一人が、
「ほとぼりが冷めたころ、八万円だけ回収できたと言えば、済むことじゃん」
商人の頭になりきっていない、消化不良のまま、
「分かりました、それで手打ちましょう」と、たった八万円を貰い領収書を日付なしで切ってしまった。
商売の厳しさを思い知った雅彦は、また、山手線に乗り渋谷駅へと向かう。公務員の方がどれだけ楽か、しみじみと感じていた。母の苦労、父の苦労、こうして僕を大きくしてくれたのか、と普通は思うがボンボン育ちの苦労知らずは、そんなことは意に返さない。携帯で山手線のなかから大きな声で、大学時代の仲間に東京の言葉で電話している。
「オレだ、山田雅彦だよ、今東京に来てんだよ、時間あるか、今日はダメ、明日は?じゃ、明日、新宿のいつものところ、エッ、おまえ忘れたのかよ、いつものところったらあそこしかねえだろう、時間出来たら電話くれ、小沢も鈴木も呼んどいてくれ、おう飲もうぜ、じゃぁなぁ」電話を切って、車内全員の冷たい視線を浴びる。
再び東横線に乗り換えサロンドIの店まで来たら、丁度店じまいをしているところである。
「手伝います」と、声をかけた。
「あらー早かったじゃない今日は売れちゃったぁ、お宅の服センスいいからよく売れるわ、ウッフン」いい女ほど見え透いたことを平気で言える。
少し待ってて、お腹すいたでしょう。いいとこあるのよ、付き合ってねぇ、とくびれた肉付きのいい腰をプリプリ振られて、目的とは逆に野獣のような男の生理がOKしてしまう。実際の年齢より若く見えるサロンドIのママは、グラマーでまだ独身と言う。お店の入っている建物は、親の遺産で自社ビル、二階から上は貸しているのだ、と、本当は遊んでいても暮らせるのだけれど、毎日が退屈だから友達のお金持ちだけを集めて、商売を遊びでやっているのだと話してくれる。雅彦はそれなら早く支払って欲しいと内心思ったが、まな板に上がった鯉のように、相手のペースで料理されていく。
「ここ美味しいでしょう、ときどき一人で来るの」
「一人で、ですか」
「そうよ、おかしい?」
「勿体無い。サロンドIさんみたいな美人が一人って、東京の男は、目が悪いのンとちゃうかぁ」
「まぁ、お上手ねぇ」首をキュッと傾げて、微笑んで見せて「若社長は、お金持ちだしお口がお上手だからおもてになるでしょう?」
手を振ってそんなことはないと照れて見せるが、鼻の頭に皺を寄せて満更でもない含み笑いを浮かべその気になってしまっている。
おだてに弱い、競艇に弱い、頭が弱い、根っからのあほボンである。
いい気持ちになっているあほボンの右腕に寄り添い、
「もう一軒行かない? 素敵なバーがあって夜景が綺麗よう」断る隙も与えず「ねぇん」と鼻にかかった声と眼つきでタクシーへ押し込め、赤坂の高級ホテルへと走らせる。揺れるタクシーを利用して、
「食事のときに飲んだワインで、酔ったみたい」チラリと目線を上に向けて、頭を肩にもたれかけてきた。
「いいでしょう」甘〜くとろっとした声、潤んだ目、ジッと見つめられる。
サロンドIのママは、獲物を射程距離に入れた猟師のように、最後の一撃を仕掛けてくる。
「あたし心臓がドキドキしてる」
あほボン雅彦の手をとり、モッコリ盛り上がった左胸に押し当て「ネッ、本当でしょう」餌食は、もう逃げられない。追い討ちをかけられ「あたし、こんないい気分初めて」ヤバイ眼つきが何かを求めている。
肩に押し付けた顔を更に雅彦の顔に近づけてきた。ママの吐息が耳たぶにあたる。
サロンドIのママの左手がさりげなく雅彦の股間に触れた。
「あっ」硬くなった自分自身を見破られた雅彦は、やや身を引いたが、もう遅い。
猟師サロンドIのママの罠にはまり、コロリとやられてしまう。脳裏で理性とスケベ心が、がっぷり四つ。誰かがささやく、『腐っても男』
勢いでやや大きめのママの唇を、ガチガチャと歯をぶつけて、
「すいません」と言いながら、改めて口を吸う。
勝利者の気分。しかし雅彦は、我が身の喉笛を喰いちぎられたのにまだ気づかない。不思議なもので、世の男性の殆どは、同じ過ちを犯す!
最上階の夜景は、絶景ともいえる美しさである。汚れた昼の東京から夜の東京へ化粧直しをした魔性のような街。見違えるばかりの夜景が前面に広がり、煌々と輝く東京タワーがすぐ目の前にそびえる。
支払の件を切り出さなければ。未熟さに付け込まれ、見事なリードで術中にはまってしまったあほボン雅彦は焦っている。
助べえ心が股間と脳みそを掻き回す。今日は夜を共にするのか、それともお金を貰って、お別れか、心の中で金と下半身が口喧嘩を始めた。
サロンドIのママがここぞとばかりに、先に切り出した。
「仲のいい友達がお金に困って、そちらに回しちゃったの、ごめんなさいね」
「いやぁ、そんなぁ」どうして、こいう言葉に弱いのだろう。
「ご迷惑おかけできないから、知り合いから借りてきたの」
本当ですか! 恐縮するが嬉しさもこみ上げて来る。
これで俺も顔が立つ。
「そうですかぁ、ご無理言ってすいません」
濡れた唇に潤んだ瞳のママが「うむ〜む」首を左右に色っぽく振り、まぶたを大きく閉じて、謝りのポーズをして見せる。
「でも、保証人を立てろって言うの、たったの二百万円なのに、あたしも信用落ちたものよねって言ったんだけど、規則だからっていうのよ」
穴の開いた風船のように、
「ハー」
躊躇しているあほボン雅彦を見たサロンドIのママは、すかさず、胸をテーブルに押し付け、大きく膨らまし、とろりと甘い声でささやく。
「若社長も、手ぶらで帰れないし、私もゥ、このままお別れしたくないしィ、お願いィ、ここに、サインして拇印を押してぇ」
決断を下せない。ママはあほボンの雅彦の顔を覗きこみ、毒を塗った最後の一矢を報い神経を麻痺させる。
「来月には友達もお金返してくれるって、だからたった一ヶ月だけ」仏に拝むように手を合わせた。さらに、雅彦の手に自分の手を添えて「お、ね、が、い」強烈な麻酔薬をたっぷり注入する。
薬が効きだしたのか、
「本当に一ヶ月だけですか?」
「うん」大きくうなずいて目を見据えた。
男という生き物は、どうしてこんなにアホなのか? 色気と誘惑に惑わされウソと誠の区別がつかない。スケベ心と欲望という悪魔の手が理性に防御された意識を無意識へと変換する。そして性欲本能がむき出しとなり、完全に餌食にされる。
「ありがとう、長く待っていただいたから利息つけるわね」さっきとは違う声色で、待っててネ、と電話をかけに店の外へ出た。
しばらくして、戻ってきたサロンドIのママは、飲みなおしましょう、と上等のブランデーを注文し「今夜は帰さないわよ」娼婦のような妖艶な眼つきで身体をヘビのようにくねらせた。
過去に水商売でもしていたのか、話の運びが実に上手い。相手の頭から理性と常識をそっと取り除き骨の抜けた魚のようにもうフニャフニャ。
飲むほどに酔いが廻ってきたあほボン雅彦は、早く部屋を予約しようと下半身が焦っていたそのとき、サロンドIのママがボーイに呼び出されて席を立った。どうも誰かが尋ねて来たらしい。
今のうちに、「チップ」と、ウエイターに千円手渡し、Wベッドの部屋を押さえて置いてくれ、と懇願している。
「はい、かしこまりました」
ちょっと待って、「一泊いくら?」と確認している。
夜景が綺麗な部屋を予約しようとすると、一泊三万八千円と言われ迷っている。更に他の部屋は満室です。と、駄目押しを喰らった。しゃぁない、それでもいいかぁ、東京は高いナァ、うれしくて「ハハハ」と一人笑いをした。
戻ってきたサロンドIのママは、ポンと請求額の百五十万円をテーブルの上に置き、
「長い事申し訳ございませんでした」頭を下げ「どうぞお改めを」札束を雅彦の方へ差し出した。
「いやぁ、信じてますから」完璧に催眠術にかかっている。そのまま内ポケットにしまいこんだ。
「これは、少ないですけど、お利息と、車代です」白い封筒をハンドバッグから出して、手渡した。
いい人だな、美しい人は良い人が多い、心が綺麗。
「遠慮なく」と受け取り、ここの支払は僕が、焦って立ち上がろうと腰が上ずっている。
「ウエイターが予約が出来ました」耳元で言い、部屋のキーをそっと雅彦に渡して、一礼した。
手回しがいいのを見破られたか、と気恥ずかしかった。しかし、もう後には引けない。俺は男だ、やるんだ、決めたんだ、眼をカッと開いている。
「ママ、行きましょう」勇気を出して、手をつなぎエレベーター方向へ歩いていく。
興奮する手で下階のボタンを押して待った。やけに長く感じる。イライラする。何度も顔を上げてどのあたりか確かめる。
『早よ来いッ』と、心の中で叱り付ける。
エレベター横の最上階の窓からは、皇居、国会議事堂など首都のシンボルが眼窩に望める。ズボンのポケットに手を入れ小銭をチャリジャリとイライラしているのがよく分かる。遅いッッッ。
その時、携帯電話が鳴った。エレベーターを待っていた何人かが自分の携帯を確認している。けたたましい呼び出し音の主は、ママだった。
「あらぁ、電話だわ、誰かしら?」
ハンドバッグから携帯電話を取り出して話し込みながらあほボン雅彦から離れていく。ボケッーと遠ざかるママを眺めている。早く電話を切れ〜下半身は爆発寸前!
やっと電話を切って戻ってきた。浮かぬ顔をしている。
「ごめんなさい。友達がお金が出来たから来いって言うのよ」
「ゲぇ〜」
「明日でいいからって言ったんだけど、迷惑かけたから今すぐ返したいって言うのよ」
「持って来てもらったらいいじゃないですか」
「それが、足がないから途中まで来てくれッて言うの、ごめんネェ」両手を合わせて拝むように合掌して頼む。
唇を尖らせて、すねた子供のように渋々言った。
「待ってますわ」
「うん、必ず来るからお風呂先入って、待ってて」ウインクをキュッと一発どこかへ。
お風呂も入り、ワインも上等の物をもって来させたが、ママは何処へ? 待てど暮らせど帰って来ない。赤坂の街の灯も一つづつ消えていく。
「事故にでも遭ったのだろうか」
どうして男はこういうとき、相手の立場で考えてしまうのだろう。雅彦は疑うことはしないタイプの単細胞。それだけが取り得。
うとうとまどろんでいる夜遅い時間に、電話が鳴った。
「わたし。ごめんねぇ、友達が嬉しいから飲もうって言うから、飲んだのはいいけどお酒が弱くて、ひっくり返ってんのぉ、いつ大阪へ帰るの?」素早い変身! 七変化。
いつ帰ってもいいんだと言いかけたが、母親の怖い顔がチラつく。会話に間を空けてしまった。
雌鳥の誘愛の踊り、女のおとり戦術。
「今度は内緒で大阪で会いましょう、あたし楽しみィ、チュッ」そのまま、電話を切られてしまう。(お前はあほヤ)天から見ている亡き父がボヤク。
集金も出来たし目的は達成した。これで明日は友と心置きなく飲めるゾ、とパンツの中に手を入れて火照りきった身体を自ら慰めた。
次の日、新宿でかつての悪友たちとドンちゃん騒ぎをし、昔話に華を咲かせる。「オレは今、船場の大社長」と大法螺をかまして、みんなから煽てられ気が大きくなり、大盤振る舞いをしてしまっている。白い封筒の中には、お礼として五万円入っていたが、それ以上に豪遊し足が出てしまった。
ホテルで十時過をまわってまで寝ていると、チェックアウトの時間が来たとフロントから電話が入った。右手でお腹のあたりをさすりながら「わかりました」と、受話器を置くと、胃の中に残っているものが、また持ち上がってくる。二度、三度トイレにへたり、眼も真っ赤。「死んだ方がマシだぁ」二日酔いで割れそうな重たい頭を抱えたままホテルを出た。東京駅までタクシーで行き、集金した店の金の中からグリーン一枚と二万円を出す。貰ったお釣は、タクシー代を立て替えたからと自分のポケットに仕舞い込む。胃がむかついて何度もえづく。たっぷり水分を吸い込んだスポンジのように、夕べのアルコールが全身の血液中に残った状態。ふらふらと揺れる身体をホームへ持ち上げるようにのっそり歩く。乗り込んだ新幹線の座席に座るなり、前のテーブルをたおして、頭を乗せた途端、「グー」と、眠り込んだ。酒臭いいびきが周りのお客を遠ざける。新大阪を通り越し、トイレをもよおし岡山で眼が覚めた。よだれでテーブルが汚れ口元についたまま慌てて乗り換えた。三時間でいけるところを六時間かかって夕刻近くに自店の近くまでたどり着いた。
「どこ行ってましてン」
向こうからやって来た礼服屋が声をかけてきた。
「集金でチョット東京まで」
「景気よろしいなぁ、ウチなんかさっぱりですわ」
船場センタービルの長い通路をを歩いて、覚めやらぬ二日酔いの眠そうな目をこすりながら、「ただ今―」と帰ってきた。
「お帰りやス。若旦那のお帰りだっせぇ」店の者たちが声をそろえて、「おかりやす」「ご苦労はンどした」「お疲れ様でした」と、事務員までが出迎える。
母親も出迎えた。
「遅かったな」少し怒りをあらわしている。店の者たちの手前そうしているのかもしれない。
奥の事務所にはいり、椅子に腰掛けるなり母親がさっそく身を乗り出して訊ねた。
「どうでした?」
ニヤニヤとカバンを開けて、札束を取り出し、「どや」と顎を突き出すようにテーブルの上に置いた。
頬が緩む母親。
「番頭さん確かめてください」
酒で顔が浮腫み眠そうな眼の雅彦。
「ウィッ、ウー」親の目の前で、ゲップを一つ吐く。
手柄を立てた息子がたくましく見えるお母ちゃん。かめへんカメヘン。
「よう頑張ったな、やったら出来るやないか」我が子の仕事振りに目を細めている。
事のいきさつを適当にごまかし、その場はうまく切り抜ける。店側も長らく入ってこなかった、いや諦めかけていたお金が入ってきたので胸を撫で下ろし、返品されなかったことにホットしている。
「疲れたからお茶飲んでくるわ」
行きつけの喫茶店にはいり、新聞を手に礼服屋のオヤジを呼び出している。東京での自慢話がしたくてウズウズしている。他に聞いてくれる者などいない。こんな時は、暇な礼服屋に限る。お互い同類項の同じ穴のむじな、船場では、あほボンパート2として陰口をささやかれていた。
周りにも聞こえるくらいの大きな声でジェスチャー付きで、手まね見真似で馬鹿笑いをしながら十倍に風呂敷を広げて話す。店のウエイトレスたちは、うるさい、と思いながらも出前を取ってくれるお得意さんだから黙視していた。
忙しくもなく、暇でもない。かといって儲かっているのでもない。ヘビの生殺しのような景気の中で、あほボン雅彦は適当に仕事をして、過ごしていた。人より遅い時間ではあるが、船場の店にはまじめに出勤している。仕事は番頭任せ責任は授業員に押し付け、コーヒーと昼ごはんが目的のような日々の職場生活。
どこかに見え隠れする創業経営者の奢り昂ぶりが知らずしらずに顔に出る。給料を払っているという立場と、貰っている者の立場は違う、オレの苦労など誰が分かるか、跡取り息子あほボン雅彦の思考方式は、唯我独尊、自己中心主義の構造で頭が回っているようである。
「若旦那お客さんですッー」店の入り口から若い声で叫ぶような声が聞こえる。
「店の玄関で大きな声だしなッ」一括して「どちらさんヤッ」と、新入りの店員に吼えている。
「背広着た立派な紳士風の人が二人来てはります」店員は事務所に入り、右頬をキッと指で線を一本引き「怖そう、ヤクザみたい」と、小さく言ってそそくさと出て行った。机の上に置いてある小型テレビで、ワイドショウを見ていた若旦那のあほボンこと雅彦の目の前に、いきなり二人の男が凄みのある顔で入ってきた。
「邪魔するでぇ」
サングラスをかけた小柄な男が許可も得ずソファーに腰をかけ、タバコを取り出しテーブルの上でトントンと叩いている。『どこかで見たことがある』
机から立ちあがり、「困りまンなぁ、勝手に入って来てもろうたら」と言った途端、「ギョッ!」と、ビックリ仰天した。
サングラスを外した男の顔を見て、あの時のォ、あっぁぁぁ、と絶句する。
「ウフフフ」薄ら笑いを浮かべた顔は長年ボクサーをしていたのかと思いたくなるくらいデコボコだ。後ろについてきている男は、ウドの大木のようにでかい。ソファーに腰掛けた男が、口をへの字にして、「とぼけてもろたら、かなわんなぁ」
やっぱり、慰謝料を取りに来た? 新幹線の小指のない男だ!
取り囲んでいる周りの従業員をゆっくり見回したあほボン雅彦は、また、お金を要求されるのかと震える声で、「何のご用件ですか」頬がひくひくと引き攣っている。
その男は、懐から一枚の用紙を取り出し、「これでンがな」と、小指のない方の手で、ポンとテーブルを叩いて死人のような眼を、あほボン雅彦のとろんとした眼に照準を合わせた。
その用紙を軽く一読し、ですからなんでしょうか、ともう一度訊ねた。
「よう見たってくれ」
男は、用紙をもう一度前へ突き出してくる。
借用書! 何かの間違いだ、エヘヘヘン、と作り笑いをして見せる。
「これはサロンドIさんがお返しするはずですが、ヘヘン」また、愛想笑いで機嫌をうかがう。
ソファーの男は、後ろに立っているプロレスのブッチャーみたいなでかい男の方をチラリと見て、タバコを見せてボソッと言う。
「火」
ブッチャーみたいなでかい男が迅速にマッチをすり、両手で口元へ持っていった。一服大きく吸い込んだ。じっくりあほボン雅彦を見据え、枯れた声をだす。
「お宅、連帯保証人になってますやろ」小指のない手にタバコを持ち替え、歪んだ眼と鼻と口を、グゥッ、と近づけ、あほボン雅彦の低い鼻の頭にめがけて、ぷーと煙を吹きかけた。
連帯保証人? 始めて聞く言葉。保証人には、なったが形だけだとママは言っていた。
「……」
「サロンドIの女主人飛びましたンや」
我々は、東京の親切商工ローンの依頼を受けて来た、こういう者です、と委任状を見せて、代紋入りの名刺も差し出して確認させる。
あほボン雅彦は、急に身体が震えだした。友達が返しに来たと言って、ホテルから出て行ったはずなのに、そんなバカなと相手に食いつく。
「バカとはどう言うこっちゃ、オウッ」ブッチャーみたいなでかい男が威嚇をしてくる。
番頭が入ってきて警察を呼びましょ? とあほボン雅彦に小声で言った。
それが聞こえたのか、デコボコの顔が、渋柿を食べたような形相で、
「上等や、呼んでもらおうか、こっちもやり易い」男は自信満々、股をいっぱい広げて、ドっかァと座っている。
正当な要求であり法律にのっとっているから権利がある行為だと専門知識までちらつかせてくる。
恐る恐る聞いてみた。
「自社ビルやって、言うてはりましたけど?」
「当の昔に担保に入って競売にかけられる寸前あったンや」
更には、許容保証限度額、二千万円貸したと言われて、あほボン雅彦は全身から血が逆流し始めた。
真っ青な顔で、
「僕が判を突いたのは、二百万円ですけど」
不気味な笑いを浮かべたデコボコ顔は、契約書の用紙を裏返して、よう読んでもらわな、と約定定款の欄を見せた。そこには小さな字で難しいことがビッシリと書き込まれている。
「貸付は一ヶ月、今日が期限や、払うてもらおうか」
ぷー、また煙をかけてきた。
「二千万円やなんて、そんな金あれしまへん」
「それでは、しゃあない、差し押さえまっせ」何食わぬ顔で主張する。
「差し押さえて、何を?」
「いっぱいおますがな、不動産に、服に、この店」……「器量がよかったらオマエの嫁はんも」でかい男までもが「娘もいけるで」
サロンドIのママは、借金で首が廻らないほど窮しており、金策に走り回っていた。ギリギリいっぱい頑張っていたが、保証人の成り手がいなくて困っていた、とデコボコ顔の小指のない男は教えてくれた。
もしかして、僕を初めから騙そうとして? まさか、そんな人ではないはず。長年の信用と付き合いがある。たまたま不景気で支払が遅れていただけ、そんなあほな。 僕に目を付け、大芝居をうった? ゲッ、色仕掛けに負けた! とあほボン雅彦は、目が覚めたかのように見えだしてきたが、悔やめど思案すれど、もうあとの祭り。浪曲師、名人広沢虎蔵、森の石松の一節が、聞こえてきそうである。
スケベ心と欲望が招いた人生の落とし穴にはまり、自ら墓穴を掘ってしまった。
電話で事情を聞いた母親が、髪の毛を振り乱して血相を変えて飛び込んできた。
「あんたら、ここをどこやと思うてるんですカッ」目を吊り上げて、頭から湯気を上げながら食って掛かる。
「何や、このクソババァ」用心棒役のでかい男が、母親を一喝して睨み返す。
相手が悪い、素人では無理だと判断した母親は、
「弁護士の岡本先生とこへ電話入れなさい」と、右手で米をとぐように回転させている。
明日までに二千万円と利息を揃えないと強制執行をかけると、男たちは捨て台詞を吐いて事務所を出て行った。
ウッヘッヘッ、と急に振り返り、
「火傷代はサービスさせてもらいマッさ、ウッふふふ」ポイと捨てたタバコを店の玄関先で、ギュギュッと踏み消し、待たせていた黒塗りのベンツに乗り込み「こらッ、ババァ、どけッ」自転車にのっていたさすがの大阪のオバハンも「なんやこらーっ」とは、言わなかった。
あほボン雅彦は、凍りついた身体中の血液が溶け出したかのように、恐怖心が収まりかけようとしたとき、背中に不吉な者を感じた。
「出来すぎやとお母ちゃんは思った。おまえに集金行かしたのが間違いあった」母親は、嘆きぼやき泣き崩れた。
弁護士の先生からは、法律的には不利であり正当な要求である。偽造の契約書ではないので早くお金の用意をした方がよいと返事が来た。相手も弁護士が間に入っていて、法的には裁判しても勝ち目はゼロ。資産の競売の手続きにすぐにでも入ると言って来ているから、なんとか用意をしてくださいと連絡が入った。
どうしよう?
「ごめんなさいお母ちゃん」
銀行に電話して担当の吉本さんに来てもらえ、と母親は指示を出して、ヘナヘナとへたり込む。
隣から大きな声がするのでロータスの社長がのぞきに来た。
「どないしましてん、はとが豆鉄砲くろうたような顔をして」
うつむき加減にあほボン雅彦が、「東京の女に騙された」ともがいている。何とかならないものか、とうろたえている。母親は頭を抱えて声もでない。
「相手の女を捕まえるこっちゃな」
どこぞに逃げていない女をどうして捜すのか、捕まえてどうするのか、とあほボン雅彦は、哀願するように聞いてみた。
すると、
「人間はいづれは死ぬから生命保険にでもたっぷりと入ってもらうこっちゃ」
たぶん貯金も資産も他人名義にして、本人名義はなにもない筈であるから命を担保に取ってしまえ、というのである。蛇の道は蛇、専門家がおるから紹介したる、と言われた。ただ巧妙にしくまれた罠に引っかかったようなものだから、人生勉強のチョット高い授業料と思って、諦めることも一つの方法だとも教えられた。
「巧妙?」と、あほボン雅彦が不審げに訊ねる。
「グルや、ってことや」
「グル!」
「金融屋と出来てる可能性がある。おまはんが、売り掛けの集金で焦っていると見て頭のええヤツが仕組んだンやろう。自宅もビルも抵当に入り、ありとあらゆる金融機関から借りまくっていることを知っていて、簡単に、金、貸すと思うか」
「一発もしてないのに、クソッ、えらい損や、クソッ、殺してやる、クソッ。可愛さあまって憎さ百倍。もったなぁ。。クソッぉぉぉ」
どこをどうしていいのかさっぱり分からない。騙された! 僕が、何で、何も悪いことなどしたことがないのに。クソッ、チクショウ、コロシテヤルゥ。と、ヤッと正常な脳ミソの、まともな人間に、我に返った。
「何とかしてッ」怒りに震えるあほボン雅彦は、すがりつくようにロータスの社長の両腕を持つ。
「先ずは、金作って、一括で返済せな店も家も台無しになるデ」弁護士と同じことを言う。
腹が立つ、悔やみきれないが仕方がない。それから女を捜す以外に方法はない。詐欺で訴えるも自ら署名捺印をしている以上、公式な金銭貸借契約書として法的にモノを言う。
そして、
「連帯保証人は、普通の保証人とは違う。債権者は連帯保証人になった者なら誰からでも取立てが出来る」と教えられた。
母親に鉄拳を食らわされる。二千万円の弁済が終わるまで給料なし、従業員も連帯責任で十五%の給料カット。自宅でご飯を食べるだけ、外食なしの手弁当。残業は当然、朝も一番に出社して掃除。お店の経営は、母親と古参の番頭が仕切ることになり、若旦那のあほボンこと雅彦は、ただの丁稚同然に降格になる。でなければ家を出て行け、財産分与はしない、死んでも遺産はやらない、と弁護士を通じて書面で取り交わしたからである。
身から出た錆び、バカは死んでも治らない。無知と欲とスケベ心がなした業、名実共に船場のあほボンとして、配達に行って来ると今日も母親の目を盗んで礼服屋のオッサンの奢りで喫茶店で法螺を吹いている。
ひげの社長の顔が見たい!
悲しい小説「実話」
ファッションに興味がある?
第二章
再起
東京の女に騙された、「マヌケ」と、船場の連中は笑い、陰口を叩く。
「ヤッパリ、アホや」
口だけの同情、内心では「自業自得じゃ」と、本音が出る冷酷な船場の商人たち。エレガンスVの跡取り息子あほボンこと山田雅彦は「ツイテナイ、運が悪かっただけや」と、長年の公務員生活のクセがでたのか赤字を出してもケロッとしている。無責任な単細胞の頭では商人になることは無理? なのかもしれない。
『運』のある人、ないヤツ。
人生は、川の流れの如く、逆らわずに生きていく方が楽だ。無理は大敵だ。自信、過信、うぬぼれに神頼み、もう一つ余計な知恵に指南書、知らずしらず誰からともなく天使のようなささやき『が、ん、ば、れ』欲に絡んだ魂には、それが悪魔のラブコールというのが観えない。運命という眼に見えない糸は、あほボン雅彦をいったい何処へ導いていくのか。ついているときは、どんどん運気は上向く。上りゆくときの人の運というものは、訳も分からなく上がり続ける。努力、精進、勤勉と、あと講釈を羅列し、胸を張る者は数多いが結果論的なまとめ言葉。逆に、上り続けていた運が、落ちていくときは何らその理由を語るもの数少ない。世の中の波動と己の波動とが噛み合わなかった事を、どこかで知っているからだろう。たとえば、うなぎ上りの株がたった一日で大暴落。楽しい学生生活が突如として軍隊生活。乱打を打ち続けているボクサーのアゴに決まったパンチ一発。笑って飲んでいるワインが飛行機と共に落ちていく。堅い信用取引の末、貰った手形がパンク。新車に乗って彼女とドライブ、帰りは木箱に入って南無阿弥陀仏。好きでほれた相手から貰うエイズに梅毒。病気を治して欲しい医者に殺される患者。悟りを開いた坊主がガンになってうろたえる。兎角この世は、人生阿弥陀くじ。ついていないときは、運気は坂道を転がるように落ちていく。
バカ息子に呆れた生みの母親もこれは放ってはおけない、と自ら店に立ち再度働き始めた。七十三歳の老経営者のカムバック。
「ちゃっちゃっと、しなはれやっ、お母さんのやることよう見ときなはれっ」とあほボンこと雅彦を常に従えている。
お客のいないときは笑顔が消え特に手厳しい。ごみ一つ落ちていても容赦はしない。しっかり聞こえるようにカナギリ声で叱る。
「誰です? ここ掃除したのワッ」朝から怖い。
倉庫に入ると、入り口に落ちているゴミを一つ二つ拾い、
「ちゃんと、サイズ別に整理整頓せな、あとで、分からんようになるでっ」気合の教育。
息子に任せていた間にすっかりゆるんだ手綱を引き締めようと心に鞭をうっているのがはたで見ていてもよく分かる。古株の連中は喜び、新米たちは厳しい指導に嘆く。だらけきった態度に澱んだ空気を入れ替えるため、自らが先頭に立ち弛んだ手綱を引き締めるが、日本の景気が今ひとつ上がらない。そこを給料をもらえたら良いという甘い考えの従業員たちを鍛えなおそうとなんとか根性を入れなおして、元のエレガンスVに戻さなければ、と気張れど時代遅れの商品では会社の台所は寒い。母親のセンスはもう古く、今の時代にマッチしない。引退したのは正解だったのであるが、跡継ぎに据えた息子雅彦は、なれない船場の商売についていくのが、ヤッと、やることなすことスカタンばかり。今は大きく反省しているように見せてはいるが持って生まれた怠け癖は、そう簡単に治るものではない。新参者のロータス社長のお店は、毎日のように景気が良い。仕入をセンスと感性の優れた者に任せ、女性従業員中心の会社に仕上げている。「毎度!」「おおきに」「ありがとうございます」威勢の良い声が壁ひとつ隔てたとなりから聞こえてくる。
母親が、ヒステリーぎみに息子雅彦に嫌味を言った。
「年は幾つも変わらんのに、えらい違いや」
聞こえた雅彦は、咳払いをひとつした。
「向こうは生まれながらの商人、こっちは公務員、脳内の構造が違う」聞こえるか聞こえないかの小さな声で反発する。
「マサヒコ! 今なに言うタッ」
家とは違う厳しい母親に雅彦は、ビビっている。
店の入り口でお客を相手に商売をしていた番頭が、母親に呼ばれた。
「何でしょう女将さん?」何かを予感しているのか緊張している。
しばらく間があって、金属がこすれあうような声で、
「今月の売り上げ、どうなってるッ?」
番頭は胃もたれするように答える。
「去年より、二十五%落ちてます」
のこぎりが節に引っかかったように、
「落ちてますやあらへンでしょッ」
「はい、でも、そうおっしゃいましても」今にも、もどしそうに手をお腹にあてた。
節目をギギギッと切り裂くように、
「集金のほうは、どうなってますッ?」
異物がまだ胃に残っているような表情で、「はぁ、それが、はぁ……」
「はっきり言いなはれッ」スパッと切り落とす。
今月の支払を考えると不安が募る母親は、頭を抱える。嘗ての現金売りは、今ではほとんどが手形、余力資金も底をついて愚痴ばかりが口をついて出る。目の前には息子の雅彦がポカーンと突っ立っている。『この、あほめが』という顔で我が子を見上げる。
肩にずっしりと事務所の空気が重い。番頭が思案の挙句、案をひとつ出した。
「手持ちの手形割ったら、なんとか、はい」
エレガンスVだけではない。世の中の、中小零細企業の殆どが首に縄がかかっている状態なのだ。何処も同じように苦しい経営が続いている。リストラも節約も生産縮小などあたりまえ、買った自宅を手放し賃貸マンションへ、車通勤から電車通勤へ、ビールが発泡酒、日本酒が焼酎、私学から公立へ転校さす経営者もいる。生活水準の削減。削れる物はみな削り、落とせるものはすべて落とし出来ることは何もかもやりつくした。残っているのは命の代償わずかな生命保険だけ、「助けてぇ小泉さ〜ん」。豊かな生活、恵まれた生活と言っているのは、おまえたちボンボン二世議員だけ、国民を文明社会という虚飾に満ちた贅沢三昧の二階に上げておいてハシゴを外す政策に、「参った」と声が乱舞している。なのに、テレビのニュースや報道番組では、景気は良い二%の上昇だとほざいている。その反面大卒六十%の就職率! 失業率は減らず、段ボール箱生活のオッちゃんは増える一方。人気のある総理は得だなぁ、と船場の商人たちは嘆きボヤク。人気は、欠点を包み隠す。
肝腎の現金売り上げが落ちてどうしょうもない。母親の女将が番頭に命令をする。
「手形割ってきておくれやす」
「いかほど?」
「いかほどって、あんたが一番よう知ってるやおまへンのかッ、まかすさかいに行ってきておくれッ」崖っぷちの頼みがイライラを隠せない。
九州は、福岡を地盤にする大和屋は大型スーパーを何十店舗も地元で展開する。売り上げ規模では中堅のスーパーである。以前は現金で仕入れていたが今では手形になり、それも三ケ月が半年、と支払期日が延びてきている。エレガンスVも手形を割らずに持続し、手持ち現金で商売をしていたが、ここまで不況が長引くと致し方ないところまできてしまっていた。その現金で生地屋さんやファスナー屋さん、裁断屋さん、ボタンやさんなどに支払いさらには、歯が抜けるように去っていったあとに、残った従業員たちの給料に当てなければならず、社長としての給料は名目だけで、経営者の山田家の手取り分は、ほとんど残らないありさま。おのずと貯金を崩しての生活を余儀なくされる。それも、今では、底が見えてきている。いつかよくなるであろうと望みを抱くも、九回の裏ツーアウト満塁、打席にたった選手に逆転ホームランを期待する声援、「頼むでぇ、打ってくれよ」の期待に背く三振ばかりが続き、笛吹けど踊らぬ景気に業を煮やしていた。
番頭が銀行から店先で接客する女将さんに、血相を変えて走りこんでくる。女将さんは横目でチラリと見て、他の店員に目配せをしお客の相手を代わる。丁稚同然の雅彦も金魚の糞のようについて行く。
「チョット女将さん、こちらへ」眼の色が変わり息を弾ませている。
どうぞ、こちらへとエレベーター脇の陰へ連れて出る。
「なんですかぁ、慌てて」少し気分を害している。
息を切らせながら番頭が、「女将さん、えらいこってすわ」と、ハァハァと息を切らせ、唾をごくりと飲み込んだ。顔に怒りが出ている女将さん。番頭は歳のせいかまだ、ハァハァと肩を激しく上下させている。
息を整えて、落ち着いて聞いておくれやす。と、前置きをして、「飛びましたンや」と喉の奥にこもる声を出すと、女将さんは首を少し傾げて、何を言っているのですか、と呆気にとられている。
意味が飲み込めていない女将さんは聞く。
「何がです?」
焦りが顔中に溢れている番頭は、額の汗を拭い口を尖らせて言う。
「大和屋さんが……」言いかけたところで女将さんの顔に変化が起きた。
? サッ、と顔色が変わり、一瞬息を詰まらせた女将さん。
「飛んだ! 大和屋さん、って……大和屋が飛んダッー」大声を発すると同時に、ウッウっうーと左胸を押さえてその場にうずくまってゆく。
床にしゃがみ込んだ女将さんを見て驚いている番頭の顔から血の気が引き、「女将さんどうしましたッ、女将さんッー」大きな声で絶叫する。
うろたえるばかりの雅彦が慌てて、ウロウロオロオロ、あっー。
「お母ちゃんっ、おかあちゃんッ」慌てるばかり。
胸の鼓動が波打つように雅彦の全身を揺さぶりだす。
「あわわ、おおお、どんどんドキドキどんどんドキドキ」激しく心臓が乱れ打つ。
顔見知りの他の店の者が通りがかり、駆け寄ってきて騒ぐ。
「どうしはったんでっかッ、Vさん」
役に立たない雅彦に代わって番頭が声をあげる。
「救急車救急車、救急車ッ」
「へー」
驚いた通りがかりの者は、腰だけひくヒクして地団太踏んでいる。身体が硬直して前へ動いていかない。まるで、冷たい氷の上に裸足で立っているように。
番頭はじれったい一刻を争うと察知したのか、焦りの色が額の皺に出る。
「早よ、呼んでおくンなはれッー」
女将さんを支える両手から右手を伸ばし、相手の足を押すように「はよ、はよ」ズボンのすそを掴んで「早よ〜」と急かしつづける。
人だかりを見てエレガンスVの店員たちも走り寄ってくる。
血走った眼で番頭が放つ。
「女将さんが倒れたッ」
唖然として突っ立っている店の者を見て、キッと睨み、首筋に血管が浮き出る声を張り上げる。
「救急車を呼べッー」
大和屋が危ない、という噂は銀行筋から裏情報としてかねがね出ていた。先代が生きていたときは、そういう情報はいち早くキャッチし、対処もできていた。母親の女手と息子雅彦では、耳に入れて貰える普段の付き合いもなく、知らぬままに月日が過ぎ、割りに出したところ不渡り!
連鎖反応で、「エレガンスVが危ない」
血の匂いは瞬く間に広がり、ハイエナどもが集まりだす。お得意さんと呼ばれていた取引先はおとなしい顔から、獣の顔に変身する。
エレガンスVは、母の急病と不渡りのダブルパンチを喰らい右往左往のてんてこ舞いの中、到着した救急車に同乗して、番頭と雅彦が母親について行こうとする。しかし、血相を変えて同じ船場センタービル内に事務所を構える業者たちが資金回収をしようと二代目の跡継ぎ雅彦の手をつかみ行かせてくれない。じわじわと詰め寄ってきて、一人の男が血相を変えて怒鳴り散らす。
「どうしてくれまンねン」「うちの会社潰す気か」「払うてくれ、早ヨッ」
人は変わる。いつも穏やかな人がある瞬間から変わる。人のため世間のためお蔭さんで、と言っていた者たちが突然オオカミの如く、雅彦もその群れに囲まれている。
頭を下げながら雅彦は懇願する。
「先に病院に行かせて下さい」
人の壁を作って行く手を阻む、怖い顔が凄んでくる。
「金、払うてからヤッ」
噂がうわさを呼び店内は、片手に集金カバンの人相が変貌した男たちであふれかえった。理性あふれる人間も、「金」イコール「命」我が身を守るために、牙がむき出して人間が野生化する。狙われた雅彦は怯えきっている。
昨日まで、毎度おおきに、の爽やかな笑顔だった顔見知りの取引先が「ぐぅうぅぅ」と、眼の色が魔界人のごとく心も冷徹になる。罵声が二代目雅彦に浴びせられ、人質同然にされた。
古株の従業員や新米の店員、さらには普段しっかり者で通っている小番頭も何の役にも立たない。「ただの一従業員です」と言わんばかりに壁際に降伏の態度で下を向いて立っているだけ。
いつも笑顔のボタン屋さんが怒鳴る始末。
「茶ぐらいだしたらドヤッ」
雅彦は、一刻も早く病院へ駆けつけたい一心で経理の女性にいくら金があるのか、と訊ね全額をおろさせて、取立て業者で割ろうとした。すると全額回収しようと色めき立ち、我が社が最も多い、いや当社が多い、とざわざわと騒ぎ立て普段見せない欲望の渦が巻き起こり、竜巻のように襲ってくる。
母親のことが心配な雅彦は、土下座をして何度も頭を下げ、今日のところは何卒お引取りをと懇願するが、承知する者などあろうはずがない。「金は命なり」
地方の債権業者からも電話が鳴りっぱなし。事務員たちも泣きながら応対するが、結局息子を出せと言われ、雅彦は、受話器を手に取り、頭を電話機に向かって下げる。さらに、後ろも振り返り、罵声に対しても頭を下げなければならない板ばさみ。その時、事務員の持つ受話器から悲鳴のような声が小さく漏れてくる。
先に病院に着いた番頭からだった。
「何してまンねン?」
「それが……」
「女将さんが危ないっ」
「えっっっ!」
「危篤ですぅッ、早う来ておくれやすッ」
スッーと雅彦の顔色が青ザメてゆくのを債権業者たちは見逃さない。
理性を完全に失った形相の取立て屋の一人が、悪魔のような毒を出す。
「母親の生命保険、差し押さえッ」
そうやそうや、とより一層殺気立ってくる。まったく収集がつかなくなってきてしまった。死刑執行のその寸前、群衆の中から一人の長老が割って出た。
重みのある声をだす。
「病院に行かせてやろう」
生地屋の大旦那で長栄商事会長の荒木又造、船場の顔役である。つづけて威厳のある声でゆっくりと語る。
「もし、万が一のことがあったら夢見が悪い、あとあとかなわん、どうです皆さん方」と穏やかに取り成し、野生化した人間どもを鎮めようとした。
「変わりに払うてくれるんかっ」「お前が払え」「老いぼれはだまっとれ」と、荒れ狂った獣は、怖いものを知らない。
会長の荒木又造が声の聞こえた方向へ、キリッと睨みを利かせ、
「吐いた唾のむなよ」と言い、続けて「命と金、計りに掛けたらどっちが重い?」
騒然としていた店の中が山寺のように、シーンとした。この瞬間オオカミに狙われた子羊が奇跡的に助かったように、雅彦は開放される。
「会長すんまへン」
店を飛び出し路上に止めてある配達用ワゴン車に飛び乗りエンジンをかけた。「お母ちゃんが倒れた、お母ちゃんが倒れた」と、今のいままで我が身に襲っていた恐怖心よりも母親の身に万が一のことが起きたら、という恐怖心の方が強く湧いて血圧が上がる。ミシン針の如く雅彦の心臓が激しく打ち始めた。運転をしながら呪文のように「何でや? なンでヤ?」と、繰り返す。
美しい銀杏並木も眼に入らず御堂筋を突っ走る。前の車をクラクションで追い散らし広い道を左から右斜線へギュッとハンドルを切る。後続の車から猛烈なクラクションの雨を受け千日前通りを右折した。タイヤがキッキィッときしむ音を放ち浪花筋を左へ曲がり、西区にある大川病院にやっと着いた。
廊下の奥のほうで番頭が雅彦に気づいて駆け寄って来る。青白い顔で元気がまったくない。「若旦那ッ」
押し問答をするように雅彦が番頭の肩を持って尋問するように訊ねる。
「どないやッ? お母ちゃんッ」
「今、集中治療室にいてはります」
番頭の身体を揺すりながら押すようにもう一度聞く。
「どこやッ? その部屋、どこにあるネンッ?」
「面会謝絶ですっ」
「何でヤッ」
興奮状態になり無理やり集中治療室に入ろうとする。
「危険な状態にあるから動かせんし、話しかけてもアカンと先生が言うてはります」番頭が必死にドアーにかかったあほボン雅彦の手を止めようとする。
「なんで? なんで倒れたンやっ?」ガックリと肩を落とした。
すこし、下を向いた番頭がゆっくりと頭を上げて、ボソボソと話し出す。
「内緒にしてはりましたけど、以前から心臓がお悪おました」
「ほんまか!」歯痛を堪えるように口が半開きになった。
番頭は、また首をうな垂れて、「「はい」と虫が鳴くような声で返事をした。雅彦は救急治療室前の廊下に置いてある長椅子に力が抜けたように腰を落とし、陽が落ちてだらりと折れ曲がったヒマワリのようだ。下を向いたまま沈黙の時間が流れてゆく。母の顔や父の顔が脳裏に現れる。父の葬式の時の写真が何故か母に代わっている。「ハッ」と、我に返り頭を振って気を取り直した。『そんなアホな』
どれくらいの時間が経ったのだろう。二人の医師と看護婦たちがドアーを開けて出てきた。
雅彦と番頭は立ち上がり蒼白な顔で伺う。
「どうです? 先生」雅彦が年長の方の医師の顔を見て、恐る恐る訊ねた。
オールバックに白いものが混じるその医師は沈痛な表情で、口を開く前に首を左右に振った。
瞬間冷凍されたように雅彦の身体は、全身が凍りついた。
「えエッ?」医師の腕をギュっと掴みにかかる。
医師は、掴まれた腕に目線をやり、重い口を開く。
「残念です!」
オールバックの医師が一言で片付けた。人の命とはこんなにあっけないものなのか。一礼をして、ナースステーションの方へ引きあげようとする、その後姿に雅彦は、
「どういうこっちゃ?」
目をひん剥いて驚きを隠せない雅彦と番頭がお互いの顔を見合わせる。引き返そうとする医師を捕まえて前を遮り、詳しく訪ねようとすると早足で歩いてきた年増の婦長に、「やめなさい」と、手で静止させられた。
医師たちは黙礼をして呆然と立ち尽くす雅彦たちの前を通り過ぎて行く。
鯉のように口をパクパクあぜんとするのみ。
「あほな、そんなあほな」
婦長に案内されて、集中治療室の中へ入って行くと、ベッドの上に眠る母の無念な顔が横たわっている。
「お母ちゃん! おかあちゃん! 嗚呼」泣き崩れ無言の母親の身体を叩いている。
「すんまへン」番頭は雅彦の横で女将さんに一礼をして悔しがる。
大黒柱の父親が亡くなり二年後に支え棒の母親が亡くなってしまった。おまけに債権者が押し寄せ踏んだり蹴ったりの災難が度重なる。
案の定、エレガンスVが振り出していた手形は次々と不渡りになり、資金に窮し、例外に漏れずあっけなく倒産してしまった。今まで苦労して築き上げてきたモノは何だったのか。どん底の悲しみの中、葬儀が行われた。祭壇の上には母の写真が飾られている。関係者が大勢参列してくる。その中にロータスの社長が会葬する姿もあった。
うな垂れるあほボンこと雅彦の顔を見たロータスの社長は、世のはかなさを噛み締めるかのように声をかけた。
「ボン、えらいこってしたなぁ」
うなずくのが精一杯の雅彦は、苦い薬を口に含んだようにうつむき加減に、
「ロータスの社長ォ、これからどうしたらええんでっしゃろ、僕ぅ」
肩を軽くポンポンと叩き、ロータスの社長は力強く励ます。
「心配しな」
雅彦は必死に悲しみを堪えて、すがるようにロータスの社長の手をとり、慈悲を求める眼で見つめた。
「また、相談に乗っておくれやす」
積み木が崩れるように、うわッーと泣き崩れ、焼香の順番を待つ参列者の悲しみを誘った。ロータスの社長は、なだめすかすように、雅彦の手の甲をやさしく叩いて慰める。
「わかってま、ゆっくり落ち着いて、それからや」
閉じられたエレガンスVのシャッターの真ん中に張り紙が張られている。裁判所からの差し押さえ命令の知らせが執行官と大阪地方裁判所名でテープで貼り付けられている。文字が戒名のように硬く惨い。
数日後、自宅も差し押さえられ雅彦は行くところがなくなり、途方にくれる。妻と子供は債権者から身を隠すため実家に帰っていた。
元実家近くのお寺で四十九日の日、義父と顔を合わせる。法要がすんだ後、義父が渋茶を一口含み、への字に曲げた口を貝が開くようにゆっくりと低い声を出して話す。
「佳子と別れてくれるか」
雅彦は、一瞬、狐につままれたようにまばたきをした。
義父は容赦なく話しつづける。
「このままあったら、佳子も孫も可哀想や、借金取りも来てるしな」
死んだ母親の生命保険も差し押さえられ一文無しの雅彦は、心を入れ替えて妻と手をとり二人頑張って生きていこう、とお通夜の晩に話したのに、実家に帰って悟らされたのか、子供の将来のことも考慮してのことなのか。
自分が蒔いた種が芽を出し、育ってみたらそれは花ではなく、毒草だった。その毒草が伸びきって刈ろうにも刈り取れず、死ぬ気で頑張ろうと決意した雅彦の魂も他人からは濁って見えるのであろうか。
「お義父さん、そんなっ」と、言ってはみたものの半ば強制的に判をつかされてしまった。当座の生活資金として百万円手渡され、夢遊病者のように臨時の宿にしている安旅館に戻ると、眼の前の衣紋かけに浴衣の紐が、ぶら下がっている。
いっその事、「一思いに……」天井の梁を見上げると死神が「おいで」と手招きをしている。
破産宣告をするしか道は残っていない。翌日、弁護士事務所に行った帰りに、もう一度見ておきたいと船場の元の店を覗きに来た。こそっと、柱の陰からのぞいていた。
「あっ」顔をあわせたロータスの社長に見つかり、「なに、隠れてまんねん」船場の債権者に見つかるのが怖くて、と説明するが、「元気ないなぁ、ボン、若旦那、二代目」と、矢継ぎ早に呼ばれ、「一から出直しなはれ」と、励まされる。
雅彦は、気力のうせたのっぺりした表情で愚痴を吐く。
「もう、死にたい。社長ォ」
うつ向いている雅彦の顔を覗き込むようにロータスの社長は、テスト的な質問をする。
「ほんまに死ぬ気で頑張るか?」透写器のような眼で睨んだ。
「他に方法がおまっか」
力なく嘆く雅彦の瞳からは、魂が抜けて、死神が笑っているように映る。
少し間があって、「ヨッシャ」とロータスの社長が手を打ち、元気のいい声を出した。
「催事やるか」
「催事?」
ロータスの社長が眼を見開いて覚悟の程を確認するように雅彦の眼を、もう一度ジロリと覗く。
「わしも若いときにやってたんやが、おまはん一から出直すネンあったら催事からやで、根性も付くし、商品も憶える、商売のいろはも学べる、どや?」
「しやけど、やったことない僕」と、弱気なことをまだ言っている。
「わしが教えたる」
「せやけど、仕入れる金がおまヘンがな」
「ネタ、貸したる」
「どんなんです?」
「ウチの商品もっていって売ってこい、売れた分は、四分六でええわ」
「僕が六でっか」
「せやッ、残ったら引き受けたる。そのかわり音あげてもろうたら困りまっせ」
「で、どこで?」
「最初はフリーマーケットからや、南港でやりなはれ」ドンと背中を押した。
ロータスの社長の店の奥からは、「やめとけ」と、手を横に振る従業員の姿が見える。
住むところは、四畳半一間の東成区のアパートを世話してもらい中古のワゴン車を十五万円で買った。最低金額の車検で済ませ、江坂社長の見繕った衣料品を積んで大阪南港へと車を走らす。他にやれることなどない。言われるがままにしがみついて生きていくしか今の雅彦には方法はない。あとは、野となれ山となれ、運は天任せと開き直ると何故か心が晴ればれとしてきた。
ロータスの社長が窓の取っ手に掴まりながら苦笑いを浮かべる。
「また、フリーマーケットに行くとは思わなんだ」
不安を隠せない雅彦は、信号が赤になった頃合を見て隣に座っているロータスの社長の方を向いて、「こんな僕でも大丈夫でっか」
少しは自分のことを理解しているらしい。ロータスの社長は、薄っすらと生やしたあごひげに手をやり、「青やで」と顎で信号を指して、「やり方が肝腎や」と諭す。
不安が拭いきれない雅彦は、さらに聞いてくる。
「素人が汚い服、安う売ってるのンと、ちゃいマッか」
クスッと笑みを漏らしたロータスの社長が自身を覗かせる。
「知能指数二桁の素人と三桁の玄人の違いみせたる、用はここや」と、頭を指差す。
ズラーッと会場入り口には所場割りを待つ車が並んでいる。早く来た者勝ちの場所取りは、早朝の五時ぐらいから並ぶ者もあるとか、そこを先に車を降りたロータスの社長は、何やら人を探しているようす。
「関口はん、いてはりまへんか」と、主催者の若い衆に訊ねている。
「あっちのテントの方に、いてはりマっけど」顎を向けられた方へ歩いていく。
テントの中を覗きこみ、きょろきょろと見渡している。ある一人の男の顔を見つけ、右手を上げて、威勢良く声をかけた。
「毎度ッ」
「いやー、有名人!」男は白い歯を見せた。
手招きをしてテントの外に呼び出し、「久しぶりでンなぁ、関口はン」握手を交わしている。
精悍な顔の関口も懐かしそうにニヤニヤと笑っている。
「どないしはりましてン? こんなとこに」不思議そうに訊ねている。
「いやーチョット頼みがあってな」と、関口のポケットに千円札を三枚突っ込み上から手で押さえて、「ええ場所くれや」
関口は頭をかきながらすこし戸惑っているように見える。すこし間を置いて、
「むかし、世話になった社長に言われたら断れまへンけど、また、なんでです?」
横にいる雅彦の方をチラッと見て、ひそひそ手短に事情を説明すると、関口がフンフンと首を縦に振っている。
「そうでっか、相変わらず得にならんこと好きでンなぁ」
その言葉が雅彦にも聞こえた。
部下の若い衆に後は頼むと一言残して、「どの車デッか」と、広い駐車場の方を眺めている。ロータスの社長が後ろの方に並んでいる車を指差して、「あれ、あの、青いワゴンや」それを確認した関口は、「わしが行って乗ってきますわ」
関口は雅彦を見て、「キー」と自から運転し、多くの出店者が見守る中を主催者前の一等地に車を移動させてくれた。
「ここで買(バイ)やりなはれ」エンジンを止めキーを抜いて手渡し、ニコッ。
「済まんな、また一杯飲ますわ」関口の方を見て雅彦とロータスの社長は、ペコッ。
「またなんかあったら言うてください」元のテントへ戻って行く、儀のある男!
ボサッーと立っている雅彦を見て、「ほな降ろそうか」と、左手を引っ張る。
「社長の知り合いデッか」と、荷物を降ろしているロータスの社長に雅彦は、訊ねた。
「ウチに出入りしてたヤツでな、むかし盗品を持って売りに来よったんや、警察に足が付いて調べられてな、領収書からウチにもポリ公が来よって、ウフフ、調べよったんやが、わしは口を割らなんだ、それを恩にきて今だに感謝してくれよるンや」
「へー、そうでしたんか」
荷物を降ろして商売の始まり、衣料品が陽に焼けないように海辺で使う大きなパラソルを二つ広げて陽よけを作る。海に面した南港の陽射しは意外ときつい。
周りを見ると隣の出店者も向かえの出店者もビニールシートを引いて小汚い古着や、リサイクルと呼ばれる中古品のバッグなどを売ろうとしている。中には骨董品を売る者もあり楽市楽座のごとく所場代を払えば食べ物以外は、誰でも自由に売らしてくれるが、昨今では自ら着用していた使い古しの衣服や食器を売る素人までもが参加して、賑やかではあるが商品の質ががた落ちになっていた。
四国や九州に行き交う大型フェリーが汽笛を鳴らし岸壁を離れて旅立つ。海上には荷揚げや荷降ろしを待つコンテナ船が停泊している。ここは、大阪市南部にある広大な埋立地。さながら海の空港といったところだろうか。
ロータスの社長が何やら探している。
「マジックとポップあったやろう?」助手席に頭を突っ込みまさぐっている。
はい、これ、と手渡し、雅彦は横で覗いて見ている。
こっちのラックは、少々難あり、そっちのラックは、少々訳あり、ワゴン商品は、どれでも二着消費税込みで千円ポッキリ、そのとなりには、さくら、の服を高い値を書いて置いている。
「さくら?」これは売りまへンのか、何でやろう? 雅彦の眼がピエロのようの丸くなる。
安さを強調するためのおとり作戦、価格に高低をつける、とロータスの社長は教える。
「欲しい人がおったら売ったらええ、せやけど、ここでは無理やろう、リサイクル屋が、安ぅ売りよるさかい、ウチはまっさらの新品を売り物にするんやデ」
客は来てもじっくり引き付けろ、すぐに側へは行くな、呼び込みは忘れるな、大きい声小さい声、中ぐらいの掛け声をまぜながら呼び込め、笑わせ、ベンチャラ言え、ほめろ、おだてろ、木に登らせろ、と、露天商のいろはを伝授する。そして、かならず、もう一着どうですか、と商人のがめつさも学ぶ。
各洋服には正規の値札が袖口に下がっている。どれもこれも本日の売値の五倍から六倍の定価が付いている。一つのハンガーラックには一着八百円、二着で千五百円消費税込み、もう一つの難あり訳ありは、一着千二百円、二着で二千円消費税込みと赤マジックで、おすすめ商品、売れ筋商品と印刷された四角いポップに書き入れる。
「社長」と、雅彦が近寄ってきて訊ねる。
「難ありってキズもんでっか」
「いーや、違う、客を油断さして緊張をほぐす狙いや」
「油断さす?」
「そうや、キズって、どこ?って聞いてくるから、まっ、見とけ」
もうすぐ門が開く、今のうちに小便に行け、客が付いたら気をそらさすな、商品に集中させて、触らせろ持たせろ試着させろ、色気を示したところで、ニコリと笑顔で、「お買い得ですよ奥さん」ニヤッ。
一気に売れッ、売ってうって売りまくれッーと商売の話になると狂人のような興奮状態で作戦を披露をした。
門の前では、目玉商品を漁ろうと朝早くから若い客やら年配者やら、どうも目玉抜きと呼ばれるハゲタカ集団が来ている。バーゲンセールや店じまいセール専門の店側が損を出している奉仕商品専門に買いあさる業者。死肉を漁る同業者の敵である。ロータスの社長があいつらの顔よう覚えておくように、まとめ買いはお断りです、とはっきり言え、と厳しい口調で雅彦に指図した。
開店時間が迫っている。門の前には朝早くから人が押し寄せてきている。ここ南港で買って、また自分の店で売るものもある。所変われば品変わる。目明き千人、目暗千人。いろんな形の商売が存在する。
「ボン開いたぞ、声をだせ、いらっしゃいませー」
雅彦も同じくつられて、両手を口の横に当てて張り切って、声を張り上げた。
「はい、いらぁ〜っしゃいッー」変なイントネーション。
「三枝のマネするなッ」叱られ、もう一度「ぃらっしゃいィッ」大きい声を出すと、それは、魚屋の掛け声や、語尾をもっと落とせ、と注意をされる。
まず、ワゴン商品に客が集まってきた。「まだまだ。引き付け引き付け」とロータスの社長が小声で言っている。「まだまだ、まだまだ売ったらアカン」
ハンガーラックに客が回りだしたその時、「今ヤッ」と、前へ回り、
「安いで、やすいで、どれでも二枚で千円や、消費税はいらんで、今日一日限りの大奉仕、持って行って、買うていって、どれでも二枚千円ヤッー」煽るようにワゴンをかき回し服を持ち上げ、満遍なくよく通る声を出している。
「似合う、似合うよ、おネェちゃんにピッタリや、ボン、袋や、丁度千円おおきに、毎度」イッチョ上がり。
「ボン、後ろの別嬪さんもお買い上げや、袋はここにあるで」ニッチョ上がり。
奉仕商品、目玉商品が飛ぶように売れまくっている。値打ちのあるものはよく売れる。
一人の小奇麗女性がハンガーラックの商品を手にとりじっくりと見つめている。
「これって、何処が難?」と、訊ねてきた。
ロータスの社長が前へ出て、チョットここが、と指を差す。
「これってキズ?」小奇麗女性が不思議そうに聞いてくる。
「ほんまは、新品でんネンけど、チョット雨に濡れただけですネン、エッヘ」と、ペコリと頭をさげて申し訳なさそうな素振り。
小奇麗な女性が、一オクターブ大きな声を出して確認する。
「百貨店あったら四、五千はするわねぇ?」
江坂の社長が損を出しているという仕草で、もみ手をしながら返事をする。
「そらぁ、します」二オクターブ大きい声で答える。
どやどやと人だかりが出来た。どれどれと女の群集の貪欲な商品の奪い合い。波状効果を生み、一枚頂戴、私もわたしも、ウチももう一枚と、次から次へと売れていき空ハンガーの山が出来る。
「車から出して来まひょか」雅彦が驚きの表情で言う。
ロータスの社長がお客がまだいるのを確認して、「アカン」と手を横に振る。
今、買った客が引くまでチョット待て、売り切れ御免と言って売っているのに今出したらオバハンがうるさい、と三オクターブ下げて止めた。
「あれ?」先ほどの小奇麗女性が何故か車の後ろに隠れるように居残っている。
「ごくろうはんやな」ロータスの社長が、側へ寄っていって声をかけている。
小奇麗女性は会釈をしてこたえている。どうもロータスの社長の知り合いのようだ。
新しい客が店頭に集まりだしてきた。ころあいを見計らって、急いで服をハンガーラックやワゴンに用意をする。さっさと動け、と鈍臭い雅彦に命令口調で叱る。ジッとしてたらアカン、動け、動いてたら客が緊張を緩め、また入ってくる。動いて知らぬ顔で引きつけるんや、と雅彦に指導をしている。これが、フリマーの売り方やと極意を体で示す。特に小奇麗女性とロータスの社長のコンビは絶妙だった。お昼ご飯近くまでにかなり売れてしまい、ロータスの社長が小奇麗女性と手をつないでどこかへ行こうとしている。
慌てた雅彦が引き止める。
「僕一人置いて、どこ行きまンねン」
ロータスの社長は後ろを振り返り過去の経験談を述べる。
「これから来る客は、みんなシガンダや」
「シガンダ? 何でンねん、それ」
「スルメの噛み過ぎたやっちゃがな」
昼から来る客は味も素っ気もない冷やかしが多い。あとは、のんびり教えたことを練習しながらボチボチやれ、習うより慣れろ、と言い残して恋人同士のように仲良く出かけていく。
賑やかだったお客が引き、手持ち無沙汰の雅彦は缶コーヒーを飲んでいる。
「社長おれへんかったら客けへンがな」
ポツリポツリと冷やかしがくるだけ、ワゴン車の横開きのドアーを開け、そこに腰を落として足をプランプランさせて座っている。タバコを取り出し火を点けて、周りの店を見ている。
隣の骨董屋を覗いている高校生風の女の子たち三人が店の方へ、キャーきゃー、とはしゃぎながら近づいてくる。『ヨッシャ、いっちょ売ってやれ』
雅彦は、すし屋のように、「いらっしゃいィッませぇー」と威勢良く声を出して迎える。
「おっちゃんおもしろいな、服屋さんと違うみたい」
真ん中の子が、ねぇネェ、と左右の女の子たちを見て可愛らしく笑う。
「何屋さんに見えた? 映画俳優か」
また、ケラケラと三人が一斉に笑いだす。
右側に立っている片えくぼのふっくらとした顔の子が、
「寅さんみたい、プハー」と、笑ったからまた、一斉に笑いの合唱が起きる。
調子に乗ったあほボン雅彦は、「手前、生まれも育ちも葛飾柴タマ」と股間を覗くとドッと全員が笑い転げた。
「おっちゃん、イヤラシイ」エッチエッチとはしゃいでいる。
「ウチらここで遊んでいいの?」左にいる賢そうな顔の子が訊ねる。
「うん、ええよ、代わりに売って」と言うと「ほんま!」と三人が眼を輝かせ、今度、出店しようと思い、下見に来たと言う。
「そうかぁ、僕が商売教えたるわぁ」
朝からの見よう見まねで憶えたことをやりだした。
「おっちゃん名人やな勉強になるわ」と、煽てている。
不思議なもので人は人を呼ぶ、若い三人がさくらになって人が集まりだしてくる。
ある客の一人が胸に服をあてスタンド鏡に映している。
「私らには、チョット」と首をかしげ買うのを躊躇している。
それを見ていた雅彦が、
「お母さんのお土産に持って帰り、喜ぶで」と、思いつきで言ったら、三人娘の賢そうな子が「そうや、ウチも買おう」と言う一声で、私もわたしも、と観客スタンドのウエーブのように連鎖反応が起きて売れだす。
喜んだ雅彦は、
「おねぇちゃんありがとう、つっこみ上手やんか」
お礼にウーロン茶を出してコップに注いでやっている。
「おおきにおっちゃん」賢そうな子がお礼を言う。
「オッちゃんは、やめてぇ」
「ほんなら、お兄ちゃん」と言われて、鼻の下をダラリと伸ばしている。
「来週も来るからな、また手つどうてナッ」
「ウンッ」三人娘が元気良くハモッた。
砂埃が舞い海風が生暖かい。売り切れて草々と店じまいをするところもある。その反面、閑古鳥が鳴いて開店のときと同じ状態の気の毒な店もある。人、物、場所、と三拍子揃わないどこか音がずれた商いは、雑音のように耳障り、それに気づくまで時間が必要なのかもしれない。
「店じまいしようか」
夕方近く客もまばらになったころロータスの社長と小奇麗な女が帰ってきた。
「どこに行ってたンでっか」と、ふてくされている。
「知らぬが仏や」と、笑っている。
ロータスの社長が櫛の歯が抜けたようなハンガーラックとガサガサのワゴンを見て雅彦に言った。
「売れてるがな」
ニヤッとロータスの社長の顔を見る。
「社長、口紅ついてまっせ」と、口元を指差す。
「ほんまか」と、驚いて鏡の前でチェックしだす。
「ウッヒッヒッヒ、ウソや」とスケベたらしい笑い方をした。
さらに、左小指を立てて、「言うたろう」クックックッ、とチクリと刺す。
「ボン腹減ったやろう、その口に旨い餌いれるから、ナッ、分かってるなぁ」とウインクをして見せる。
「やすもんの餌ではすぐ開きまっせ」ハンガーラックを車に積み込み冷やかすように小奇麗女の方に顔を向け、ニッチャとスケベ笑いをして見せた。
「脅迫か、ほな、河豚でどうや?」ロータスの社長は、買収にかかる。
「ウッヒョー、気張りましたなッ、いっぱい口に入れて黙っときますわ」
「げんきんなやっちゃなぁ、もとはと言えばおまはんのための応援やのに」
「まぁ、よろしいやおまへんか、能力のある人が恵まな救われまへんで、エッヘッヘ」と気色の悪い含み笑いをした。
車に乗り込み、南港を後にして河豚屋のある道頓堀まで向かう車中でロータスの社長が運転している雅彦に問いかける。
「どうや、おもろかったやろう」
「船場とはちゃいまんなぁ」
「頑張ったからよう売れてるで、十五万もあるわ、四分六やから九万円取っといて」
「すんまへん、こんなようさん恩に着ます」
「無駄遣いせんと貯めるんやで、いつか船場にエレガンスVの看板上げンとなっ」
胸にジーンとくる言葉、そうだ、いつか船場にあの、のれんを、エレガンスVの大看板を……「へいー」と、眼が潤む。
「おいおい、泣いたら、前が見えヘンがな」空からは感激の雨が降り出してきた。
大阪ミナミは道頓堀の西にひしめく飲食街。一般観光客は足を踏み入れない地元の人が通う西道頓堀に広がるひなびた飲み屋に食い物屋、どぶ臭い大衆的雰囲気が漂う。味と量は一流、値段は庶民的な壁板が変色した河豚専門店。
馴染みの仲居が明るい掛け声で「いらっさしゃいませ」と、笑顔で迎えてくれる。
「あらーロータスの社長、三名さまですか、どうぞ奥のテーブルへ」
道頓堀沿いに面したテーブルに座り、てっちり三人前とビール二本、あとでころあいを見てひれ酒をもってきて、そや、てっさも三つ持ってきて、とロータスの社長が注文をし、まっ、くつろいで、ルミちゃんもごくろうはんでしたと労をねぎらう。
早くも割り箸を手に持ち食べる準備OKの雅彦。
「ルミちゃんっていいますンかいな」斜め前から雅彦が声をかける。
「はい、急に社長に頼まれまして、内緒にしててごめんね」首をキュンと可愛い。
雅彦も同じように首をキュンとマネをしたが水牛のむち打ちのようにぎこちない。
「いーえ、ルミちゃんのお陰でようさん売れましたわ、最高のさくらや、ねぇ、社長」
運ばれてきたビールを手に持ち、まぁ一杯いこか、とロータスの社長が雅彦にすすめる。
「すんません」とグラスを両手でもって、注いで貰っている。
社長のグラスにはルミちゃんが注ぐ、そのビンを取り、雅彦がルミちゃんのグラスに注いでお疲れ様でしたと、グラスをガチャッと乾杯の音頭。
渇いた喉にビールを流し込み、「アー」
満足の溜息を出したロータスの社長が、説明を始める。
「ボン、このルミちゃんは昔うちで働いとったンや、仕事が上手な子でな」
「やっぱり、それを社長が手を出した」ヤバッ、と慌てて口を押さえる。
「おまはんは、口に締まりのないヤッチャ」ビール瓶を大きく持ち上げ、ぶつける不利をして、シッと指を一本、口に立てた。
「若く見えるけど結構歳は喰っている」
途端にテーブルの下でルミちゃんの足が飛び、蹴飛ばされる。
「余計なことは、シッ」ルミちゃんがロータスの社長の口に指を立てた。
ほんとうのことを言いすぎた、申し訳ないと横目でルミちゃんの横顔をながめ雅彦の方を向きなおして話しだす。
「これからスーパー、百貨店と催事売り場を廻る予定や、助っ人としておまはんに付けたるわ」
「ほんまでっか、百人力ですわ、飲みのみ」ぐっ、と空けろと手で煽る。
ルミちゃんは、夜はスナックで働いている。また連れて行ってやるから、と再度口止めをされ、運ばれてきた、てっさに舌鼓をうつ、「うまいッ」
旨そうに食べる雅彦に、ロータスの社長はお金の使い方を教示する。
銭は、生きた銭を使わなアカン。見栄はって、地代家賃人件費の高い店で食べる必要はない。ここは、店の成りは汚いが味は一流や、飯は舌で食べ酒は喉で飲む、雰囲気ムードは楽しい会話で醸し出す。嬉しい話に楽しいジョーク、これさえあれば気の利かないブスホステスのいる店に無駄な金を落とす必要もない。理屈こねる板前の創作料理とやらの訳のわからん和食に見栄えだけのフランスイタリア料理、ソースと調味料の厚化粧の錯覚料理、どれもこれも、あきんどには死に金や、賢く生きたら、結果、金は残る。金は貯めるものと違う、始末して残すものや、と贅沢癖の治らない坊ちゃん育ちの雅彦に、忠告するように講義を繰り広げた。
「はい、分かりましたから、はよ食べさして」と懇願している。
鍋のふたがプカプカと湯気が天井へ向けて直線に吹き上げる。河豚鍋のふたをあけると独特の香りがプーンと店内に広がってゆく。湯気が鼻を通り脳を刺激しグーッと腹が鳴る。
「おねえさん、ひれ酒持ってきて」口の肥えた雅彦が催促をする。
「はーい」長い返事のあと熱燗徳利とひれの入ったコップをお盆に載せて、「おまたせしました」と、テーブルの上に置き素人が持てないような熱い徳利を素手で持ち注いでくれる。
「すまんな」雅彦は早く飲みたそうである。
しばらく寝かし、マッチで「ボッ」とアルコールを飛ばす。香ばしいふぐひれのすこし苦い香りが酒に混ざり鼻にキューンときて、生唾をゴクリ。あぁ、旨ァぁ。
「社長はここにようきまんのか」雅彦が問いかける。
「週一の割合や、安いからなぁ」河豚料理一品しかないメニューを眼で差して、「見てみぃ」
「安ぅ」驚いた雅彦が眼を丸くする。
嘗て通っていた河豚屋はここの三倍の値段がしていたからである。雅彦が、あら身を熱そうに口にほうばり、「負けてまへんで、ここの味」何処の店と比べているのか。
味ちゅうものは、七十%以上が店の作りや雰囲気で酔わされる暗示効果や。ネタ代三分、店代七分。みんな無駄銭はろうてはる。銭の有り難味が分かってない輩ばっかしや。腹に入ったら出るのはみな同じ糞じゃ。
「汚いなぁ」ルミちゃんと雅彦は顔をそむけて、やめてぇ、と手を横に振っている。
ルミちゃんが気を利かせて河豚の身や野菜を雅彦と社長のポン酢の中に入れてくれている。空いたグラスにもビールを注ぎ卒がない。
「ルミちゃんも遠慮せんと食べて下さい」雅彦が自分の奢りのようにすすめた。
「誰の金で食べてンねん」ワハハハーと笑い声が上がる。
旨い料理と酒で場は盛り上がり雅彦の再起の初日は無事終えた。
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ちょっと気分転換に買い物をする
第三章
希望
今日は奈良県の桜井市駅前のスーパーサーティンの店頭で販売する日だ。いつもより多い目の商品とハンガーラックを積み込まなければならない。
ルミちゃんがロータスの社長にアドバイスを入れている。
「ここのお店は専業主婦が多いから、手ごろな普段着でもちょっとおしゃれっぽい物、そうやねぇ、三千九百円で売れるものと千円均一で裁ける物」と、判断が早い。
通常はデパートでは五千円から一万円位の物をスーパーの店頭では半分以下の値で売らなければ買ってはくれない。商人の仕掛けや巧みな言葉に負けない眼の肥えた厳しいお客が多く、そんな土地柄でまともに商品を出していたのではとてもじゃないけれど買ってはもらえない。棚卸が済んだ儲けがタップリ出たあとの小マシな商品を見繕い、透明のクリスタルのビニール袋に入れ変え、スポットライトの照明を上手に当てる。それは、綺麗にお色直しを済ませた純朴の花嫁のように仕立てると、あら不思議! 一つ頂戴、とお客の元に嫁に行く。
ロータスの社長が倉庫を閉めながら、先方へ行ったら店長の小林さんに丁寧に挨拶をするように。売り上げがすべてである。売れればまた、呼んで貰える。売れなければ次回はない。出店したい業者はいくらでもいる。一国一城の夢見る若者、廃業したサラリーマン、生活の楽しみで商いをする老夫婦など千差万別。店側は出店業者に情けなどかけない売り上げがすべてである。
ロータスの社長が車に乗り込む二人に、
「ちゃんと挨拶入れときや、電話で話はしてあるから、頑張って三十万以上は売らな、また呼んでくれへんで、なっ」と声を掛けて送り出す。
雅彦とルミは車に乗って出発。
ルミちゃんが始めての雅彦に熟練工のように商売のノウハウを説明する。スーパーは、店によって違うが今回は、口座料として十八%の歩が取られる。だからと言って高く値札をつけると中々かってくれない。臨機応変に様子を見ながら商売をしないと美味しいところだけを持っていかれる。
感心して聞いている雅彦の口は開いたまま、ハンドルを握りながらペコッと頭を下げお願いをする。
「何にもわかれへんから、あんじょうたのんます」
ルミちゃんは車に揺られながら雅彦に話し続ける。
「私も昔社長と一緒に回ってたときは楽しかったし、商売好きやからお力になれるかどうか分かりませんけど、事情は聞いて知っているので」やや同情しながら横を向くと雅彦の目がキラキラと光を帯びている。
「社長のお陰でほんま助かってますわ」
「ほんま、ええ人ですよ、良すぎて騙されてばっかし、ところでなんてお呼びしたらいいンですか」澄んだ瞳を運転席に向ける。
「山田雅彦っていいまんネン、みんなボンとか若旦那って言ってましたけど、陰ではあほボンって呼ばれてました」
ルミちゃんが、くすっと笑った。知っていても言える訳がない。
「そうねぇ、店長で、どうです? 人前では山田さん、誰もいないときは雅彦さん、夫婦と思われたらお困りでしょう」
「ぼくはええけど、ウッヒッヒー独身やから」三つ子の魂百まで。
ルミちゃんが愛くるしく、九号、十一号の女性は自分をよく知っているから、オシャレをする。何が似合うかも知っている、おばちゃんサイズのLLやLLLの太物サイズの人は、ただ布をかぶっているようなモノだから、今日は念のためゴム入りのパンツをたくさん積んだ。これで客を集めて二千九百円と三千九百円を裁かなくてはならない。千円均一は雅彦さんが、私は目の肥えた主婦を裁く、お昼前後と夕方から夜七時までが勝負。お昼ご飯は客の引く二時から三時の間、と立て板に水の如く喋り続けた。桜井店に着いた二人は店長の小林に挨拶に行き、店内の衣料品販売店の価格を偵察する。持ちネタの売値の最終決定を下し店先に並べる。すべては、ルミちゃんのリードで事を始めていった。
その頃、船場の不動産屋さんの間では、何軒かの競売物件の噂が挙がっていた。その中の一つにエレガンスVの店の資料がある。競売によらず任意売買となっている。関係者だけの極秘裏に裁かれるらしい。過去に一億円以上もした物件が、たったの三千万円とある。えらい下がったもんやなぁ、と無残な価格に首筋をさする者もいる。
お昼過ぎ、売り上げがことのほか良かった雅彦は嬉しくてロータスの社長に報告の電話を入れている。
「売れてマッせぇ」と声が弾んでいる。
「……昼間までで十万超えてる! 悪ないな、やるやないか」
「これもルミちゃんのお陰ですわ」
「ちゃんと仕込んで貰えよ」
「何をですか?」
「アホ、仕事に決まってるやろう」
「あぁ、また、アレを仕込むのかと思いましたわ、社長は世話焼きやから」
「ボケッ、ルミちゃんに代わってくれ」
「もしもし、ルミです」
雅彦がニヤニヤと側耳を立てて聞いている。
「気ィつけよう、あのどすけべぇ何さらすか分からへン、ナッ、今日可愛がったるシ」
お昼の休憩のとき、近所の飯屋の前を歩きながら、思い出し笑いをしてる雅彦のフニャケタ顔を、通りすがりのオバハンに、チロッーと見られて、怪訝な顔をされる。
「いや、気持ち悪い人」声が雅彦の耳に届いてきた。
「何ッ抜かしやがんンねん、化け物めが」と、香水臭いセメントのように塗りたくった厚化粧のオバハンの後姿にガブッと噛み付いた。
その声が聞こえたオバハンが戻ってきて「誰が化け物ヤッ」と、獅子舞のように喰らい付いてくる。
迫力に怯えた雅彦は、
「済まん、すまん」と、両手を合わせて謝っている。「オバハンはヤクザより怖いわ」聞こえるか聞こえないかぐらいの小声で早足で去りながらまたけなす。
お手にとって見てください、と嫌みなく購買心を煽り、右から左へと売りさばくルミちゃんのお陰で順調に売り上げを伸ばしている。雅彦も自信がついたのか、奥さんお似合いですよ、と動きが楽なゴム入りパンツをたったの千円、どうです? と売れるおもしろさに口も滑らかに手を叩きながら軽快だ。
夜九時過ぎ雅彦とルミちゃんが元気よく大阪に戻ってきた。雅彦が、ニッターとほころんだ顔で、指を三本立てた。
「社長ォ、今日三十万」
ロータスの社長も頬がゆるむ。
「ごくろうさん、よう売れたな、立派りっぱ」と褒めている。
ルミちゃんがハツラツとした口調で言う。
「桜井店の店長喜んでました。また、呼んでくれると思うわ。雅彦さん頑張り張ったンよう、ネェ」
雅彦が満面の笑顔で酒を飲むしぐさをして、
「社長、今日飲みに行きましょう」あぁ、遊び癖がまだ抜けていない。
ロータスの社長が苦虫を噛み潰したようにルミちゃんの方を向く。
「なにか言うた?」と眼で問うと、ルミちゃんは、「うん」と首を縦に振る。
欲求不満? 溜まっとうるなぁ、この甘ったれ。
「よっしゃ、行こう」
「ウワーイ」子供のように飛び上がって喜んでいる。
さらに、
「ええ子いてるらしいんですわ」と、調子付いている。
長年身についた遊び癖は簡単に抜けるものではないらしい。まして、お堅い公務員生活で表面上は生真面目に押さえつけていた男の欲望が、四十を過ぎて目覚めるとなおさらたちが悪い。
はしゃぐ姿を横目で見て、ロータスの社長が小声で、
「ルミ、何喋ったンや」ルミちゃんは「いい子がいるって言っただけ」と答えて、「オウ、ノ―」と両手を上に、肩をギュッと外人のような素振りをして見せた。
いい子がいてる? この一言が消えかかっているスケベ心の火に油を注いだのを知らない。女にはこのあたりの男の生理がどうも理解できないようだ。
ルミちゃんがアルバイトで働くスナックホタル。宗右衛門町の複合ビルの中にある五坪ほどのこざっぱりした店内。カウンターとテーブルが三つある小さな店だ。ママと女の子二人が客の相手をしてくれる。良心的な価格とサービスでこの不況下の中でも数人のお客が水割りやらカクテルを飲んでいる。
三人はボックス席に腰をおろしキープしてあるリザーブで雅彦はオンザロック、ルミとロータスの社長は水割りにして、ピーナッツを肴に飲み始めた。
ママが、「社長いつも御ひいきに」顔面いっぱいに広げた営業スマイルで挨拶をしに来た。そして、女の子を一人雅彦の横に座らせてくれた。
面長で顎がシュッとハーフのような腰のくびれとおしりの張りが目立つ子。背も高く細い体形なのに出るところは立派に膨らんでいる。まつ毛が長い目元が妖艶な男ズキのする顔立ち。
「満子です」頭をチョコンと下げて雅彦に微笑む。
唇にホクロがひとつある。ひょっとして、好色かも? 途端にゆるんだ顔からいやらしいオーラがぷんぷん舞い上がり出している。ギラギラと目つきの怪しい雅彦は全身のバネが外れたようにグニャッとしだす。勝手にサラミや玉子焼きにフルーツなどを頼んで、食べ、飲み、と勧めだした。いきなり口説き始めて自分は独身だを連発する。淋しい夜が続いているのか男やもめにウジが湧いたのか、猛烈アタックを繰り返す。ロータスの社長の忠告など、どこか空の彼方へ飛んで行ったもよう。
ルミちゃんが雅彦の耳元に片手を添えてヒソヒソとなにやら囁いている。
「この子は胸が大きいのが売り物で初めてのお客はすぐに熱を上げる、雅彦さんも注意した方がいいわよ」
ナヌッ! と一瞬ルミちゃんの顔をみて、
「すぐさせよるんか」
ギュッと腰の贅肉を抓られる。「痛ッタタタッ」
ルミちゃんが照れながら、
「やらせのお満(マン)ってあだ名」
肩書き、体形、人格、頑固など一切関係なく、正常な男であればいずれもこの手には弱い。いざとなれば女の武器を利用する。男心はいとも簡単に溶解していく。男という者は何故かこのタイプに脆い古今東西。雅彦危うし。
満子とヤッタ客同士が店の中でかち合い喧嘩もしばしば起きるとか、店側も馴染みさんが減るのは困ったものだと店主のママもうれし悲しい因果な商売と嘆いていると言う。
骨抜きにされる寸前の雅彦は、満足この上ない締まりのない面。氷が切れたのを気づいたロータスの社長が、「これ」とアイスボックスの中身をおマンちゃんこと満子に見せた。席を立ったその隙にロータスの社長が魂の抜け殻のようなブニャグニャ顔の雅彦に、酒に飲まれるなよ、手ぇ出したら火傷するで、と熱を下げようとお節介をやく。
「大丈夫だ、意志は強いデッさかい」自分の股間を見ながら「大丈夫やな」と言い聞かせている。呆れ顔のロータスの社長を見て、「女の扱いは慣れてます」すでに酒が全身に回りだしているのかもしれない。
周りの心配をよそに、自らポケットに手を突っ込み名刺を取り出し、電話をくれと前後の見境のない懲りないアホ。
今後の計画についてロータスの社長が意見を述べようとしている。雅彦も真剣な眼差しで聞くふりをしながらカウンター内に呼ばれた満子の方を眼が追いかけている。
「ボン聞いてるかッ」
「はいッ」眼を元に戻し、「そこまで僕のこと考えてくれはって、涙が出ます」大げさに喜びを表し手を膝の上で揃えてかしこまっている。酒で顔は赤ばみ呂律は回らない。
ロータスの社長も同様である。不明瞭な発音で、
「そない喜んでもろうたら、わしもやった甲斐があったちゅうもんや、なぁルミちゃん」手が胸のほうへ伸びた。
もう、手癖悪いネンから、セクハラで訴えるよ! と酒の上でのこと、ニコッと笑う良く出来た女。
「ほんまやわ、雅彦さん良かったわね、続けてやりはったら一年でお店もてるかもよ」と、ルミちゃんも手放しで喜びを分かち合う。
雅彦は真顔で、
「ほんまでっか! 社長」
「金残したらの話しやけど、女、酒、博打に溺れたら転覆するで」痛いところをつかれて、コクリと頷く。
ロータスの社長が追い討ちをかけるように皮肉を込めて、チクッーと一言。兎角酔うと我を忘れ失態が過去に多かった前科者。
「とんがらしは、当分開店休業って看板下ろしておけ」グサリと釘を刺した。
近畿各地のスーパー周り、縁日には、有名な神社の参道、お大師さん祭りには、京都の東寺や四天王寺の境内などでテキ屋まがいのこともこなした。今日は、久しぶりに仕事が休みの雅彦は昼間までぐっすり眠った後、ロータスの社長の事務所を訊ねた。
「いてはりまっか?」
ロータスの社長はもっと売れる場所をと次の計画を練っていた。
電話帳を繰り出しプッシュホンを押しながら受話器を持ち耳元に当てながら、
「ボン、次は、百貨店や」
「百貨店!」雅彦は眼をくりくりさせた。
「もしもし、デパートのタカマシ屋さんですか、……へー、ナンバの……へー、すんまへんけど催事部長の本岡さんは、いてはりマッか、……へー、船場ロータスの吉田っていいます、……へーへ」
雅彦はタカマシ屋と聞いて驚いている。いったいこのオッサンは何者や? という顔で電話をもつロータスの社長の顔をしげしげと見つめている。電話口から漏れる声を聞き取ろうと受話器に耳をくっつけてきた。盗聴が趣味かそれともホモか。たらこ唇が何とも卑猥。気持ちが悪い、離れろ、と手で押しやっているが離れない。他の従業員が呆れかえって、あーぁんと開いた口がふさがらない。
「もしもし、電話を代わりました。催事部の本岡です。名物社長久しぶりです」
「香港店、以来でんな、」
「そうですねぇ、懐かしいぃ」
「あのころはよう飲みましたなぁ」
「いやー、その節はお世話になりっぱなしで、ケッケッケ、で、今日は、また何か」
「いやー頼みがあってな、七階の催事売り場チョット出させてぇな」
「今、いっぱいなんですよ」
「そんな事言わんと、香港では兄弟になった中やないかぁ」
「それは、内緒ッ。ケッケッケッ」
「昔のよしみでそこを何とか、ねじ込んでくれ」
受話器にくっ付いている雅彦がロータスの社長の顔を見て、イッヒッヒッヒ、と不振な笑いを立てている。
「……あいの日でしたら飛び飛びで空いてますけど」
「それでええから、押さえて、頼むわ、またええ女世話するさかい、頼ンまっさ」と電話を切った。
雅彦は、催事のことより香港の女の話が気になるらしい。
「ウッヒッヒえっひっひオッヒッヒ」変態丸出し!
ロータスの社長は、在庫帳を見て百貨店用の商品の選別に係り、利益の出た商品の中から小マシな物を数種類選び出し従業員を一人連れて、雅彦と共に倉庫へと走った。
部下と雅彦に命令をして、値札を全部タカマシ屋の値札と取替えさせる。デパート用の商品として出荷させるために。プレスをやり直し真新しい透明のビニール袋に入れ替え化粧直しをさせる。倉庫に眠らせててもしゃあない。金に代えたほうが賢い。♪在庫でも税金、儲けても税金、同じ払うなら売らな損そん♪と、鼻歌交じりで選別をしている。
ここは大阪ミナミのど真ん中にあるタカマシ屋、買い物客で連日賑わっている。各私鉄沿線から来る人々の服装もどこか違う。南海電車や近鉄電車から降りてくる泉州や河内の普段目立つコテコテの大阪弁もどこか余所行きの言葉遣いに変わってしまう。一階には、女性が喜ぶ化粧品とアクセサリー売り場が豪華デラックスな内装に仕上げられ女性客の足を止めてしまう。潜在意識に潜んでいる女性特有の美的本能をくすぐり、「美しくなるんだ、なれるんだ」と催眠を掛け、上へうえへと登るエスカレーターで誘導していく。
新聞の折り込み広告を目当てに七階の催事売り場へと急ぐ専業主婦のおば様たち。足の踏み場もないほどの活気が充満し我先にと特価商品の綱引き。
雅彦とルミは今日はスーツ姿に身を包み高級百貨店の店員らしく売り場にシャキッと立って接客をしている。
雅彦も、
「いらっしゃいませ、こちらなどはいかがでしょう」と歯の浮くようなセリフで、応対をしている。
売れる速度は事前に見込んだ通り恐ろしいものがあった。祭事売り場というだけで安いと思っているのか、それとも商人の術中にはまってしまっているのか陳列した商品にお客が群がっている。
こっそり覗きに来たロータスの社長が柱の陰から雅彦を手招きした。
「あぁ、社長来てはりましたんか」売り場主任の眼を盗んで話しかけた。
「よう、売れてるな」小さな声を返した。
「はい、お蔭さんで」もっと小さな声で返事をした。
さらに声を落として、
「むこうで商売してるヤツの商品見てみぃ、物凄い勢いで売れてるやろう、あぁいうのをよう覚えとくんやで」
「ほんまでんなぁ」聞こえないくらいの声で頷いた。
雅彦の耳に手を添えてコソコソと呟いた。
「アイデアは盗め、ええ事は覚え、売れ筋を自分で掴め」
雅彦もロータスの社長の耳に口を持っていきボソボソと聞き取りにくい。
「分かりました、もう行かな、売り場主任に怒られますよってに」
声にならない口の形だけで、
「明日、あれと同じ物ぶつけて勝負や」
戦場のような催事売り場、女の欲望が露骨にむき出しになる。安さがオシャレに勝つ。あられもない姿で奪い合う。
本日の売り上げの統計が出された。雅彦とルミちゃんらの売り上げは、二十業社中八位だった。翌日他社の売り上げトップの商品を積み込み千円安く値札を付けて商売を始めた。瞬く間に売り上げはアップ。売り場主任から褒められる。
しかし、帰り際に搬出扉のところで前を塞がれて、難癖をつけられた。
「おい、お前らやり方が汚いぞ、新米の癖に」同じ会場で商売をしていたあのよく売れていた連中である。
一緒に片づけを手伝っていたロータスの社長が受けてたつ。
「汚い? 顔にゴミでもついてまっか、そら、おおきに」といなす。
「なにぃ、こらッ」五分刈りの頭に白髪が混じった初老の男が怒っている。
ロータスの社長が知らん顔をして通り過ぎようとしたとき、雅彦が腕を掴まれた。
「舐めたらアカンで、マナーが悪い、おまえら」と、啖呵を切ってきた。
振り返ったロータスの社長が、雅彦の腕を振り解き、
「なに、さらすネンッ、こらぁ」と、踏ん反り返った。
五分刈りの男が、
「威勢がええなぁ、とても服屋とは思えん、何もンや、オマエッ」と、凄んできた。
踏み込んでもう一歩五分刈りの男に近づこうとしたロータスの社長、ルミちゃんが止めようと前に立ちふさがった。
その肩越しから、
「ションベンたれみたいなこと抜かすなッ、カスッ」
雅彦がロータスの社長の後ろに隠れた。そして、ベルトを掴んで「やめまひょう」と、止めている。
威圧に負けたのか相手が黙った。勢いに乗って喧嘩の常套手段ここで押さえ込む。
「商売にマナーもへっちゃっちゃもあるかッ、オイこらッ、お客は安い物を選ぶのンとちゃうンかイッッッ」雷の如く言い放った。
本腰の勢いに怯んだか五分刈りの初老の男は、一歩さがった。
うろたえたような口ぶりで屁理屈を吐いてきた。
「エチケットちゅうものがあるやろ」
ロータスの社長が、此処が攻め時と、一気に攻撃に出る。
「そんなもん守ってたら、いつまでも若い者は浮かばれんワイッ、強い物が勝つンや、あんたらも長いことやってきて、ぎょうさん儲けたやろう、ちょっとは譲ったりぃナァ、ヨォ」巻き舌で一節ぶつ。
そして、顔の力を抜いて「いっぱいどうでっか?」と初老のおとこを誘った。
事情を説明して、今後は二度と御社の商売は邪魔しない。そのかわりこの雅彦のために他の百貨店の口座を貸して欲しい、とお酒を注ぎながら頭をさげた。
「出店しないときだけで結構ですから、口座料もお払いいたします」
横にいる雅彦もチョコンと頭を下げている。
五分刈りの初老の男は、酒を一杯ぐっと空け、ロータスの社長と雅彦の方を向いて、
「分かった、人助けって聞いたらわしも黙ってられんわ、ようさん潰れたからなぁ」と、消えていった仲間の同業者が瞼に浮かんだのか、虚空の一点を見つめている。
敵にまわすより味方につけたほうが得策と感じた男気のある初老の男は、すんなりと承諾をしてくれた。ロータスの社長も交換条件として、良い出物があったら真っ先に連絡をすると約束をした。
大小の有名百貨店を各地回り、資金的にも余裕が出てきたあほボンこと山田雅彦。マネキンと呼ばれる売り子さんの派遣料金と、ときどき手伝うルミのアルバイト料を支払っても三百五十万円ほどの金が一年足らずで手元に残った。
商売の準備が終わり開店時間前のある百貨店の喫茶室で、三人座ってコーヒーを飲んでいる。ズルズルとコーヒーをすすっている雅彦にロータスの社長が音を立てるなっ、と一括してからおもむろに話しだした。
「金を残すコツは一生懸命働いて暇を作らんことや」と、しみじみと売上帳を見る。
「雅彦さん、ほんまによう頑張り張ったねぇ」と、ルミちゃんも嬉しそう。
「はい、全部社長のお陰ですわ、おおきに」と、また、ズルズルコーヒーをすする。
ロータスの社長が、眼で音を立てるなっ、と怒る。
「これからもこの調子で頑張ろう、商品を見る目も出来たし、勘も働いてきた、あとは度胸だけや」
「女の度胸は一流やのにねっ」ルミちゃんが皮肉をポツリ。
ロータスの社長が眉間に皺を寄せて、なにぃッ。
「どういう意味や?」
雅彦がシィーとルミちゃんの口を押さえる。
「どうしたんや?」売上帳でテーブルを叩いて雅彦とルミちゃんを睨みつけた。
うつむいているルミちゃんが、ハマグリの口が開くように渋々白状する。
「お忍びで」
「お忍び! やったンか、おまえら?」血圧が上がりだしたか、顔がマッカッカ。
ルミちゃんが腹を抱えて笑い転げている。
「あっぽ、お店に来るの」秘密のベールを剥いでしまった。
呆れたヤッチャ。
「まさか、おまえ、あのやらせのおマンに熱上げたンか」と、怒ろうとしたその時、罰が悪そうに席を立ち、「トイレに行って来ます」と、逃げようとする。
「こいつはッ」と、捕まえて、頭を軽く小突く。
お金とレシートをルミに手渡して、「わしもションベンや」と、喫茶室隣の奥へ二人が向かっていく。
支払を済ませ、一人喫茶室の玄関で待たされたルミちゃんが遅い二人を心配してトイレの入り口で呼んでいる。
「社長ォ、雅彦さ〜ん」
中では聞こえていたが返事が出来ない状態になっていた。
「痛い、いたい、あぁ、痛いッー」雅彦が悲鳴を上げている。
「痛いッ、イタイッ」と、唸っている。
「イタイッ、痛いッ、いーたーいー」歪んでる顔がもっと歪みだしている。
雅彦を殴っている! ルミちゃんが男便所に飛び込んできた。
「どうしたの? 外までイタイッて、まる聞こえよぉ」
殴っているのじゃないのを確認して、ホットする。下から雅彦の顔を覗くように様子を伺い、さらに、「どうしたの?」
かがみ込んだ雅彦をかばうようにロータスの社長が大声をあげた。
「ボン、どこが痛いねンッ?」
「痛いッ、イタイッ、イタタタッタッタッタッイーターイッ〜〜〜」下腹部の方を押えて、しかめっ面のギブアップ寸前の顔。苦しんでいる。
貧しい暮らしをしている雅彦に同情するようにロータスの社長が訊ねた。
「変なモノでも喰ったンか、腹が痛いのか……具合の悪い病気と違うか」
「病気?」
雅彦に添えていた手を一瞬引いたルミちゃん。
この痛がりようは、コイツ! ロータスの社長が天を仰いだ。脳裏に痛い思い出が浮かびだしてくる。
尿道結石? まさか、
「ヒョットして?……お、ま、え……やらせのおマンと……ヤったなぁ」
ルミちゃんが、ナヌッ! とズッコケタ。
「もう、あれだけ注意したのにぃ、ドすけべぇ、エッチ、チンチン切ってしまえッ」と、呆れている。
ロータスの社長も参ったとパンチを雅彦の顔面に打つ真似をして拳を振り上げた。
「あんな公衆便所みたいな女と、ようするナッ」
雅彦は、とんがらしの根っこを押さえながら上目使いで嘆く。
「淋しかったモン、イタッタッタッター、痛ったったったっー」
腹が立つのを通り越して、笑いがこみ上げて来たロータスの社長が診断を下した。
「百%淋病や」
ざまぁ見さらせとあざ笑っている。
「根っこが痺れるゥ、イ〜タ〜イッぃぃィ」とんがらしを持って中腰にしゃがみ込み助けを求めている。
「やかましいわい、マイシン一本打ったらすぐ治るッ」と、お尻を蹴飛ばした。
「イッタッイッー〜〜」
第四章
のれんをあげる
東大阪市にある商店街を不動産屋さんの案内図を持ちながら雅彦がロータスの社長に連れられて歩いている。
「シャッターがようさん閉まってまんなぁ」すっかり股間から痛みの消えた足取り。
「だから、家賃が安なったンやで」寂れゆく商店街を眺めて呟く。
そして、物件を品定めするときは磁石を持て、方向は大事や、迷信と言うヤツもおるけど売れる店には決まった方角がある。むやみやたらと値段で飛びついたら損するデ、二階は絶 |